祭司としてのとりなしの祈り

昨日の日記は 日付が変わった
日曜日の朝に書いたのですが
神様が 11時の礼拝に間に合うように
書きなさいと示されたので

礼拝メッセージとリンクする
何かがあるのだな と思い
何とか11時に書き上げました
(UPは数分過ぎましたが(^_^;

昨日の日記のポイントは
相手に明らかな非がある時に
裁くのではなく公平な態度を
示す ということでした

ここでの「非がある」とは
神様が喜ばないことを
していることを指していますが

極端な例えを言うなら
人を貶めるような計画に
誘われた時に 断ったり
参加しないと表明した後に

その人たちが自らの悪意で
自滅し 不幸になるのを見て
どうすればよかったのかーと
頭を抱えている時に神様が

自分を責めてはいけない
あなたは自分が取るべき態度が
どういうものかを知らないのだ

と 教えてくれた みたいな感じです

すごく仰々しく書いてますけど

人の悪口や批判 噂話を聞いたときに
天に唾を吐くようなものだから
止めときなさい と言うことは
クリスチャンになるより前から
よくあることでした

何故なら そういった話を
否定せずにただ聞いてしまうと
敵に同意したことになって
こっちにまで霊的混乱が
押し寄せてきてしまうからです

それを避けるために
私はそれに同意しません
ということをはっきりと
言わないといけない

そこまではわかるのですが
その後にどうすればいいかが
わかっているようで
よくわかっていなかったのです

とりなしをすればいい

というのはわかっていましたが
霊の目が開かれますように
神様の御心を知る機会が
与えられますように と
祈るぐらいしか出来ませんでした

それが 今日の礼拝メッセージで
とりなしの祈りというのが
具体的にどのようなものかを
明確に 示してもらえたのです

簡単に言えば
その人の立場に立って
自分自身が罪を犯した者のように
神様にとりなしを祈る

ということでした

これは 台湾の牧師さんの
証だったのですが

実の弟がヤクザになってしまい
救われて欲しいと思いつつ
関わりたくない 会いたくないと
思っていたことを神様から
それはとりなしの態度ではなく
相手を裁く態度だと示され

旧約聖書の祭司たちのように
罪の和解の生け贄をその人に代わり
屠る者としてとりなしを
祈るように示されたそうです

その様に祈る時 神様が
その人をどれ程に愛しているか
ということもわかるように
なったのだそうです

成る程 とりなしというのは
そのようにすればいいのか!と
本当に 目から鱗でした

そのような祈りであれば
ノンクリスチャンのためにでも
祈ることが出来ます

早速 思い付く限りで
とりなしの祈りをしたい人や
神様から以前 この人のために
とりなしの祈りをしなさいと
示された人について祈りました

また身近な人 りゅうくんや
母のためにも祈りましたが

最後に ふと自分のためにも
それをやるべきだという思いが与えられ
自分のためにもとりなしの祈りをしました

その祈りは 自分の言葉や
思いによるのではなく
聖霊さまによる
とりなしであったからです

祈り終わると 自分の中で
重荷となっていたような感情が
全てクリアになるのを感じました

神様に委ねるべきが
委ねきれず抱えてしまって
いたことを 祈りにより
神様に完全に明け渡すことが
出来たように感じます

物凄くすっきりしましたし
この祈りは本当にあらゆる面で
有効な祈りだと思うので
積極的に祈りたいと思います

そういえば以前 神様から
あらゆる人に対して赦しの宣言を
するように示されて 物凄く
心が晴れたことがありましたが

それをより深く詳細にした
感じだなと思いました

私の悩みの大半はこれで
解決されたように感じます

ちなみに礼拝の様子は
動画で見ることが出来ます

https://21ccc.jp/distinations/worship-video/

離れていても このような形で
霊的に養われていることに
心から感謝します\(^o^)/✨

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