神様から頂く賜物には様々な種類がありますが
その中でも「ことば」と表されるものには
知恵のことばと知識のことばの2つが
聖書に示されています
コリント人への手紙第一12章8節
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、
ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
2つが別々に記されているということは
1人の人が片方だけを受ける場合がある
ということを示しています
知識と知恵の賜物の定義
ここで言う「知識」というのは
取り次ぐ人は知らないのに
神様はご存知である事柄です
例えば癒しのミニストリーの最中に
「交通事故の後遺症で右足が痛む人」
というような示され方をしたり
預言のミニストリーの最中に
「842」「17」といった数字を示されたり
人名や地名が示されたりすることで
神様が何かを語りたい(或いは癒したい)という
意思表示の現れとして託されます
対して「知恵」というのは辞書にある通りの意味に
「神様の」という主語がつきます
デジタル大辞泉「知恵」
物事の道理を判断し処理していく心の働き
物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力
知恵・知識のことばの現れ方
冒頭に書いた通り 知恵と知識は
1人の人物に与えられるとは限りません
知識は受けたけど それをどう扱えば良いか
わからない ということもありますし
知恵は受けたけど 具体的な内容が
わからない ということもあります
多くの場合はリーダーとなっている人が
知恵と知識の両方を受け取ったり
「この会衆の中(或いはサブリーダー)の中に
知識の言葉を受け取った人がいる」と
神様に示されることが多いように感じます
知恵を受け取っている人の場合は
知識の在処や扱い方をも
知らされている場合がほとんどですが
知識だけを受けた場合は
その知識をどう扱うかについて
慎重に探っていく必要があります
それは 聖書にこのように記されている通りです
ペテロの手紙第二1章5-7節
こういうわけですから、あなたがたは、
あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
信仰と徳の上に知識を得て
知識に対しては自制と忍耐と敬虔と兄弟愛と愛を
加えるように 聖書では教えているのです
知識のことばの扱い
私の経験上 知識の扱いについては
神様による訓練があると感じています
具体的に言えば上述の通り
自制 忍耐 敬虔 兄弟愛 愛へと
発展させていくための訓練なのですが
それは 神様にどう扱うかを尋ねることで
きちんと導かれていく道であるように感じます
私の場合の話で言うと
賛美中にビジョンを貰うことがよくありますが
大抵のビジョンは私自身に対する励ましや
私自身に対する未来への希望なので
神様に感謝をして心に留めておきます
しかし場合によっては示されて
絵に描いたり文章にして残します
(私の場合はFacebookに書くよう
示されてUPすることが多かったです)
ですが 全く意味が分からないビジョンを
見せられ 尚且つこれは何ですか?と
尋ねても答えがない場合は話が変わります
それは 人に伝えたり共有するべき
ビジョンである可能性が高いので
まず 共有するべき人が誰かを
探す必要があるのです
神様が共有すべき人物名を
出してくださればいいのですが
そういったヒントすらない場合は
共有するために まず絵に起こし
思いつく限りのリーダーや兄弟姉妹に
見せて回りました
その過程が大事なのか
途中で共有した人にとっても
意味があるのかは私にはわかりませんが
自分が見たものも 相手に見せる時の方法も
丁寧に扱うことを体験したと思います
他人に関わる知識のことば
また 知識のことばには自分の範囲の外に
踏み出す必要があるケースがあります
それは 他人に対する神様の示しです
これこそ 自制と忍耐と敬虔と兄弟愛と愛を
鍛えられる経験となります
ですがまず最初に 他人に関する知識のことばが
「必ずしも相手に伝える必要があるわけではない」
ということに気を付けなければいけません
私の経験を書くと
夢の中に教会の兄弟姉妹が出てきたり
神様が名指しで知識のことばを
示してくださった時にまず最初に
これは本人に伝えるべきですか?と尋ねます
すると ただ単に神様の思いを
知って欲しかっただけなので
心に留めておいて と
示されることがあるのです
神様のご性質を知るために
或いは思いを共有したいと思ってくださり
知らせて下さる場合もあるのです
また 伝えた方が良さそうな雰囲気の時は
いつどのように伝えますか?と尋ねて
その方法に従います
その時気を付けるのは
自制 忍耐 敬虔 兄弟愛 愛という軸から
ずれないようにすることです
「愛に失敗はありません」とある通り
この中でも愛は最も重要です
そしてさらにもう一つ
これが私にとっては大変厄介だったのですが
実は自分が知る必要がない知識を
拾ってしまっている場合があるのです
私がそのことに気が付いたのは
預言の絵の講習会に参加した時のことでした
余りにもたくさんのビジョンが見えてしまい
1つ1つ吟味して 自分が描くべきものがどれか
探さなければならず 絵を描く時間が
大変短くなってしまいました
そしてみんなの絵をシェアする時間になったら
「これは私が描くべきものじゃない」と
感じたビジョンを他の人が描いていたのです
私は空中に漂っていた全てのビジョンを
無作為に見てしまっていたのか と呆れました
これはすごい気分が悪かったです
吟味する時間が勿体ないことこの上ありません
何より 他の人が受けるものは
他の人がきちんと受けてくれますから
私が見る必要は全くないのです
すぐ神様に「自分が受けるべきもの以外は
見えないようにしてください」とお祈りをしたら
それ以来 余計なビジョンは見えなくなりました
恐らくクリスチャンになるより前に
自然の賜物として知識の賜物を持っており
神様の御心は何でも知りたいと
漠然と願ってしまっていたのだと思います
聖書を知る前に知らずのうちにやってしまった
賜物の乱用と言えるかもしれませんが
ここには知識を得る前提にあるはずの
信仰と徳が欠如していますし
何より自分自身が困っていたので
余計なものが見えないように祈れたことは
本当に良かったと思っています
知恵を頂けたことに感謝します
(ちなみに本当に不要なものは祈れば
すぐに取り去ってくださいますが
訓練中のものについては祈っても
取ってはくださいませんので その場合は
きちんと訓練と向き合ってください^^;)
知恵のことばには従順に
以上のように 知識はそれだけだと
大変厄介なところがあり
神様の知恵を求めていくことで
上手に知識と付き合うことが出来るように
なっていくと感じます
では逆に 知恵だけを頂けた場合は
どうするかということについては
示された通りに動けば あとは
聖霊さまがどうにかしてくださるので
とにかく従順であれば良いと思っています
但し それが神様から出たものかを
分別する知恵知識が必要になります
自分の奥まった部屋で祈るためにという記事に
詳細を書いているのでそちらをご覧ください
また 従順に動くことに慣れていない人には
訓練の機会が与えられると思いますが
その訓練は 神様の御業を見る
とても素晴らしい機会になるので
ぜひ従うことをお勧めします
私が経験したもので一番素晴らしかったのは
行ったこともない神戸について
祈るように示された時のことです
何について祈ればいいのかは
示されず わからなかったのですが
そういう場合も異言で祈れるので
わからないながらも とにかく祈りました
「行動」をすれば あとは聖霊さまが
全てをなさってくださるのです
祈った直後 旅費までの全てを与えられて
本当に神戸に行くことになりました
そしてとても素晴らしい空を見せられた時に
祈りは聞かれた ということはわかりましたが
自分が何を祈っていたのかは
最後までよく分かりませんでした
ですがこの時 神様から示されたことについて
お金はどうしよう 日程はどうしようなど
考える必要はなく 動くことを決めるだけで
必要が全て与えられるという体験をしました
この体験は本当に貴重で
その後の自分の信仰が大きく変化しました
神様の知恵は 本当に偉大です
知恵を求めることは神様との関係を築く上で
大変重要なものだと思います
ヤコブの手紙1章5-6節
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、
その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなく
お与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。
疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
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