自ら神の手を掴もうとするもの

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昨日の日記を書いたためだと思いますが
今まで自分が苦手としていて
神様から 離れるように示されたタイプの人のために
用いられる機会を頂きました

それは 愛がある故に人を裁いてしまい
コントロールをすることで相手を
良い方向へと導きたいと頑張る人でした

その人の言葉の端々には ブレイクスルーというのは
祈りによるのではなく 神様によるのではなく
人の悟りにより起こるという信念が見え隠れしています

一所懸命 教えたり説得しようとしたりするのですが
その方法は自分の方法であり 根底には裁きがあります
相手のことを考えたやり方ではありません

助けたいから教えたい

クリスチャンであれば その思いはきっと
誰もが持ったことがある感情だと思います

ですが この人が幸せでないのは
これが理由だと決めつけて裁き
悔い改めさせようとする姿勢は
全く持って聖書的ではありません

イエスさまは 生まれつき盲目のものが
なぜ盲目であるのかと弟子に問われた時
問題には目を向けずに神のみ恵みに目を向けられました

しかしそれは人に出来ることではありません

助けるのは自分ではありません
神様が人を救われるのです

それは自分自身のことも一緒です
私が注意をして努力をするのではなく
私の弱さ 至らなさ 綻びに
神様に立っていただくことを祈るのです

事前に時間があればあらかじめ祈りますし
話している最中であっても小さな声で
異言で祈ることもあります

私が唯一気を付けることは
その場の雰囲気をこの世的にしないことです
自分の思いを入れないことでもあります

この世の考えが中心になる会話には参加せず
相手の方の目が神様に向くようにします

その為には自分自身が
神様を仰ぎ見ることが必要です

そのようにして場を作る中で
その人は 自分の方法が実は違うのではないかと
疑っているということを告白し始めました

その根拠は 聖書に書いていないからだと
自ら熱心に訴え始めたのです

自分の方法に縛られていたところから
心にある より良い高い方法へと
神様が導いてくださったと感じました

コントロールの霊が逃げて行った瞬間です

クリスチャンであれば
心の内にいる方が中心となれば
その人にある召しや賜物に応じて
私の理解を遥かに超えた高いところへと
神様が導かれていきます

このことは イエスさまが仰った
「あなた方の知らない食物」です

自分の召しに生き 魂の食物 命の泉を頂くことは
神様のみ恵み以外の何物でもありません

求める人は それを自分の手で求めます
ですが 神様は無条件に一方的に与える方なのです

それは 人が自分の努力により
それを得たと言わないためです

私たちは ただ自分の心の態度を監視します
そして常に神様にチューニングを合わせます

それが出来ない時に 支えあえる人を
神様は必ず与えてくださいますし
最終目標は自分自身がその人になることです

それは 神様の同労者となる時に
人に与えられる仕事なのです

求めるなら 神様は必ず与えてくださいます

私たちにある責任は 神様に期待をして
祈り求めることだけです

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