昨日の神様体験のひとつを書きます
(神様による人生の創造参照)
福音書の中に イエスさまの伝道中の出来事として
このような記述があります
ヨハネの福音書4章31-34節
そのころ、弟子たちはイエスに、
「先生。召し上がってください。」とお願いした。
しかし、イエスは彼らに言われた。
「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
そこで、弟子たちは互いに言った。
「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方の
みこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、
わたしの食物です。
失われた人々に起きたリバイバル
この聖句は イエスさまがサマリヤの女に
ご自身がキリストであることを話された直後の
イエスさまと弟子とのやり取りです
この時 サマリヤの女は自分の街に戻り
「来て、見てください。私のしたこと
全部を私に言った人がいるのです。
この方がキリストなのでしょうか。」と
人々を呼び集めて来て 多くの人が
イエスさまを信じました
サマリヤ人というのは イスラエル人と
アッシリアからサマリアに来た移民との間に
生まれた人々とその子孫で
アッシリアの宗教が混ざった教派を
信じていたこともあり イスラエル人から
忌み嫌われている人たちでした
ですがそこに リバイバルが来たのです
イエスさまがこのことを為している時
弟子たちは食料を買いに行き 留守でした
戻ってきて食事を勧めたのに
イエスさまは満たされていて
食事は要らないと仰ったので
弟子たちは不思議に思ったのでした
「みこころ」の意味
話は変わりますが
実は私は 教会で奉仕をしている時
PC作業をしていると(頭を使うと)
いつもに増してお腹が空いてしまい
かなり違和感を感じていました
かと言って太るわけでもないので
本当にエネルギーを消費していたみたいなのですが
あまり良いことだと感じていなかったので
この聖句を読む度に この時の
イエスさまのような体験をしたい!と
強く願っていました
そしてこのことは イエスさまのように
伝道の時に起こるものだと
勝手にイメージしていたのです
何故なら伝道は 全てのクリスチャンに
与えられた召しであると教わっていたこともあり
伝道こそが神様のみこころだと
信じて疑っていなかったのです
ですが 神様のみこころというのは
必ずしも伝道だけではない
ということを強く感じることになりました
昨晩は 教会の牧師さんや兄弟姉妹に声をかけて
羊肉が美味しいお店にみんなで行ったのですが
食事をする前から神様の喜びに満たされて
全く食べていないのに
お腹いっぱいになってしまったのです
お陰で肉を焼いたり みんなと話をすることに
専念出来たので良かったのですが
伝道とは全く関係ないシーンだったので
嬉しいやら驚くやらだったのです
後になり 以前神様が私に見せられた
夢のことを思い出しました
(豊かさへの招き参照)
夢の中で神様は 私に宴会の席を見せられて
これからここにたくさんの人を招くが
食材が足りないから食材をもっと
買ってきなさい と仰いましたが
昨日の晩餐が その宴会だったと感じたのです
御国の宴と自分自身の召し
確かに 神の子どもたちが楽しく集まり
宴会の席を設けることに対しては
並々ならぬ羨望を抱いていました
あるクリスチャンの集いで
皆さんが食事をしているのを見た時に
地上に御国が降りていることを感じ
ものすごく感動したことがあるのです
その集いに参加されたゲストの牧師さんは
あまりの素晴らしさに感動して
世界中の要人に声をかけてくれたほど
聖霊に満たされた食事の席だったのですが
こういうのがクリスチャンにとっての
日常になるといいのにな
と 思っていたのです
私とりゅうくんの2人だけでの食事は
比較的それに近いものがあり
いつでも食事のお祈りの時には
神様 一緒に食事をしてくださり
ありがとうございます♪
という言葉を入れています
また 教会でのランチセルの時も
お花畑セルと自称しているのですが(笑
聖霊に満たされていることを感じています
ですが昨晩は それとは比にならず
神様が これこそがみこころだと
大変満足されていることを感じました
そして 上記の聖句を思うわけですが
伝道ではないシーンでこの体験
というのはどういうことなのだろう?
私の召しって一体何なのだろう という
疑問にもなってしまいました^^;
この件については今後も神様に
尋ね求めていこうと思っていますが
一つの可能性としては
執事という立場が近いんじゃないかな
という気がしています
執事というのは使徒の働き(使徒行伝)6章に
出てくる役職なのですが
伝道や祈りのために働く使徒たちが
教会での人間関係トラブルや
食事の世話などに時間を取られるのは良くない
ということで それらの役を担うために
任命された 信仰と聖霊とに満ちた人たちです
聖書の中にはそれ以上の記述がないのですが
調べてみると 執事に任された仕事の範囲は
かなり広く また不明瞭であったようで
「教会の何でも屋的」なニュアンスを
感じるのですけど
私の教会での立場は正に
そんな感じだったこともありますし
伝道師である姉妹ともずっと
教会の外は彼女 内のことは私と
頼られていたり
伝道に召されているりゅうくんと
パートナーであることなどを考えると
外に出れないのは嫌だーと叫んだ直後なだけに
ちょっとどきどきしています(苦笑
とは言えまあ
牧会にも召されている感じがしていて
みことばや神様の思いをわかりやすく
かみ砕いて伝えることは大好きですし
今はモノ作りに召されていて
専念するようにも示されています
そう考えると 一つの召しだけに
召される感じでもないのかもしれません
それに役職名が何であっても
私は神様がやって欲しいことを
忠実にやるだけですからね(・▽・)
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