神に遣えるリーダー

最近神様から示されることは
深く考えさせられることばかりなのですが

その中で 今日はずっと示されていた
人の奴隷としてではなく
愛あるリーダーとして神様のために働く

ということについて
人を見ないというのは
どういうことかを示されました

今日のQT聖書箇所は
ヨシュア記20章だったのですが
ここは大変短いところです

12部族の割り当ての地と
レビ人のための町、そして
ヨシュアが住む町が決まった後

逃れの町を定めるようにと
神様に示されたことと
部族ごとに町を決めたことが
書かれてあるだけです

以前の私は 示されて決めた
というそれだけをそのままに
受け取るだけだったのですが

今日は この定めに対して
こんなこと示されなかったら
絶対に定めも用意もする者はいない

この世にこんなことを思い付くのは
神様以外にいない ということを
物凄く強く感じました

思い付くという表現も変なのですが
人間のリーダーも 悪魔も
絶対に思い付くことのない
神様にしか創造出来ない決まりだ

ということを強く感じたのです

QTの中で神様はこの箇所について

今だったら交通事故に対するものと
考えるとよい と語ってくださいました

それを語られた時に
もし交通事故が加害者と被害者の間に
血を見るような復讐劇が
繰り返されるようなものだったら
車社会は今のようには発展しなかった

という思いが来ました

そう考えると 神様は
人の考える目先のことではなく
物凄く高くて広い視点で
大変合理的な制度を創られた
と感じました

聖書には 賄賂を受け取って
裁きを歪めてはいけないことが
書かれていますが

今回の示しと合わせて考えると
神様の示しというのは本当に
公平かつ人の発展のために
必要なもので満ちていると感じました

それを思った時 つい最近読んだ
ベン・ホロウィッツ氏の著書
「WHO YOU ARE」を思い出しました

この本は 著書がピックアップした
リーダーたちの話が出てくるのですが
その中に 刑務所の中で
驚異的なリーダーシップを発揮した
ある囚人の話が出てきます

派閥があり搾取があり
囚人による囚人殺しも
日常茶飯事だったという
刑務所の文化を塗り替え

囚人たちが社会復帰するための
学びの場や支援を提供する文化を
作り上げた人物です

様々な負の感情に囚われた人々に
同じく負の感情の果てに殺人犯となった
その人がなぜ 立ち直ったばかりか
人々を引き上げられるまでになったのか

それは努力や根性や使命感といった
人の努力に由来するようなものではなく
もっと根本の 人が欲する
良く生きたいという素直な欲求に
基づくようなものだと感じると同時に

人や悪魔からこの発想は
絶対に出てこないものだ

と感じました

悪い経験の中に育ち
師とするような人もなく
刑務所という 負の感情が渦巻く中で
様々な決断をしていくわけですが

その時に 人を中心にするのではなく
お金や人の称賛といったものでもなく
生き抜くことと高潔さについて
徹底的に考え抜くに至るまでに
感銘を受けるような本に出会います

要するに学ぶ機会はあったのですが
その本を読んだときに なぜ感動して
それを自分のものにしようとしたのか

もっと言うなら
他の人はやらなかったことを
なぜ彼はやったのか

誰も味方をしない むしろ
反発する力の方があるような環境で
どうしてそれを成し遂げられたのか

その思いはどこから来るのかと考えた時
神様から来ているとしか思えないのです

この件に関わらず
クリスチャンであるかどうかに関わらず
神様からの愛によるものだと
思うことがたくさんあります

神様は被造物全てに
その愛を注がれているのは勿論
人の心をご覧になり
思いを与えているのだろうなぁ

と思います

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人