神様が取り返してくださったものを守る動機

今、神様から示されてこの日記ブログを
最初から全部読みなおしています

読み直すだけではなく編纂するのが目的なので
ラベルを付けたりポイントをメモしたり
色々しているのですが

1記事、当時の私はまだ奥深さを
知らないままに書いていた記事がありました

それは「イエスさまは信じたけど
イエスさまのようには生きたくない」
という人がいるというお話です

元の記事はこれなのですが

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最近の日記にも書いて 自分の中では
腑に落ちて完結した話なのですが

イエスさまの似姿に作り替えられるというのは
クリスチャンリーダーがよく言っているような
外に出て行って癒しと解放とよみがえりをして
弟子を取って教育して

といったことが全てではないということです

イエスさまに救われてついていきたいと言ったのに
自分の家に帰って証しなさいと
イエスさまに言われた人もいるわけですし
(むしろ そういう人の方が絶対に多いです)

イエスさまの似姿に作り替えられるというのは
大宣教命令に歩くことが全てではなく

自分に与えられた預言を掴んで
その道に歩むことであって

イエスさまがやったのと同じことを
しなさいというのとはちょっと違うんじゃないか?

と 思うわけです

というより、イエスさまがなさったことを
神様の目線で解釈すれば
それは「預言の成就に忠実に歩まれた」
なのではないか?と思うのです

イエスさまは(旧約聖書を通して)
たくさんの預言を受けて地に命を受けて
預言の通りに生きることに忠実でした

預言の成就に関する台詞も多くあります

イスカリオテのユダに対しても
(自分を売るものだとわかっていながら)
自分のやるべきことをやりなさいと
送り出しています

自分の身に何が起きるのかを知っていながら
預言の成就を優先させていたわけです

イエスさまは、神様がやりたいことをしていて
自分のやりたいことは一つもやっていない
とまで仰られています

自分にとっては苦しいことでも
神様が預言されていることだからそうする

それはでも 神様がどれほどに
自分を愛してくださっているかを
わかっていないと難しいかもしれませんが

そういった生き方をすることによって
イエスキリストの似姿に作り替えられていく

それが神様との関係の過程だと思うわけです

上記の引用元の記事にはこのことが
ちょっと違う角度で同じことが書かれていました

5年前に神様から示されたことにより
私が理解したのはこうだった、って話ですが

イエスさまのようになりたくないという人は
神様よりも自分を愛しているんだなー

というニュアンスで書いています

ですが今ならこう思います

神の義に生きることで得られるはずの約束を
敵の誘惑により奪われていることに
気付いてないんだな

勿論、わかった上で誘惑の方がいい
という人もいるにはいるので 最終的には
自由意思としか言いようがないのですけど

神様は 人が敵に奪われた権威を
イエスさまを犠牲にしてまで取り返してくださった

折角取り返してくださったものを
敵に奪われたままでいるのは不愉快なので
私は神様につくのです

何故なら神様程に真実で誠実で信頼出来て
自分のことを本気で考えて本気で愛してくださって
命までささげられた方は他にいないから

最近神様から示されていることは
「愛が動機でなければ何の意味も価値もない」

それがこの世界を創られた方のみこころで
それがこの地における全てなのだと思います

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