祈りと行動と解放

先日 とても大きな解放がありました

その解放のきっかけとなった出来事は
自分の望んだ形ではありませんでしたが

それが必要だったことを神様はご存知で
祈りだけではなく 行動の上に
与えられた解放だったと強く実感するものでした

祈っていたことというのは
自分自身の健康のことですが
その祈りというのは正に
神様との歩みだなと感じます

幼い頃からずっと体調が優れず
若い頃はずっと なんでこんなに
辛くて苦しい思いをしながら
生きなければいけないのか
という思いしかありませんでした

悪い状態があまりにも長く続き過ぎて
それが当たり前過ぎて
良くなることが出来るとも思えず
良くなりたいとも思えなかったのです

クリスチャンになってすぐの頃の
私の祈りは 希望が抱けない自分の
思いを変えてくださいという祈りでした

それが 体の一部だけのむくみが
完全に癒されるという奇跡を通して
神様にはそれ(癒やし)が出来ることを
示してくださいましたが

しかし その癒やしを瞬時に
全身に与えてはくださらなかった

その事に対して 周囲の人は
一部だけではなく全部を
治してくれればいいのにと言いましたが

私には 癒されることよりも
神様との関係の方が大切だから
神様は私をそのように癒やされないのだと思い
その事は私にとって大きな喜びでした

何故喜びなのか

それは癒されることよりも
神様と親密に歩き続けることへの
保証の方が私には大切であり
神様がご自身を示したいと
ご自身の御心を示してくださる方が
癒されることよりも嬉しかったからです

勿論それは全ての人に
当てはまることではありません
解決を貰うことで神様に
一生ついていきます!という
気持ちになる人もいるでしょう

ですが私はそうではなく
私をその様に作られたのは神様です

強がる必要はないのできちんと言うと
神様との関係が喜びであると同時に
体調不良との付き合いが
まだまだ続くという絶望でもあり
早く終わらせてほしいという
思いもあるにはありました

しかし 聖書を読めばヤコブが
神とあることに感謝しつつも
自分の人生は苦しみだったと
語るところもあるように

或いは神の友と言われたモーセが
人々の態度に耐え切れずに
神の良さをあらわすよりも
自分の思いをあらわしてしまったことで
約束の地に入ることが出来なかったように

或いはヨブが 無理解な友の言葉に
神様に対して悪態をついてしまったように

神様は 私を練られるし
そうならないためにもっと神様に信頼して
祈り求めて欲しいと思われている

そう感じていたので
ひたすらに祈り求めましたし
祈ることに対して神様は
全て答えてくださいました

私のメインの祈りはその後も
自分の思いを変えてほしいと
いうものが中心でしたが

途中で 私が変わるべきではなく
周囲が変わるべきこともあると気付き

もし私が変わるべきなら私を
そうでないなら周りを変えてくださいと
祈るようになり それも含めて
神様は御心を現してくださいました

自分の思いを変えるという話で言うなら
一時的に癒やされてもまたぶり返すので
癒やしてくれる神様に申し訳ない
という劣等感のようなものを
抱いていた時期もありましたが

神様は そんな感情は抱かずに
ただ喜び感謝するようにと示されました

他の人のことで言うなら

体調がなかなか良くならないのを見て
またなの?という態度を取ったり
体調不良の原因はおまえにある という
態度を取る人を 神様は砕かれたり
私から遠ざけられたりしました

その代わり 私を追い立てることをせずに
見守る人を置いてくださいました

それにより神様は 私の内にあった
追い立てる人たちに遠慮する思いや
傷つけられた心を癒してくださり

自分が自分であること

自分が神様が作られたままに
生きることに遠慮することがないように
強めようとされていることを感じました

また 神様との関係の中で
良い医者との出逢いや
良いサプリメントとの出逢い
良い環境との出逢いを与えてくださり

医者や薬やサプリメントを否定し
自分の努力を尊ぶ人たちを
私から遠ざけてくださいました

自分の努力を尊ぶ人というのは
漏れなく宗教の霊を持つ人で
自分の行いにより良いことも
悪いことも起こると信じている人です

ですが 神様の目線だけが真理で
それ以外は 結果に対して
それらしい理屈をつけたものであり
(真理を捻じ曲げて自分のものとする)
例えて言うなら盗作のようなものです

神様は私から その様な盗作に対する
気遣いを一切する必要がないところに
私を置いた上で
神様が私に与えたいものをくださろうと
していることがわかりました

神様は対処療法ではなく 根本治療を
与えてくださっているのと同時に
御国というのがどういうものかを
私に教えてくださっているのです

神様が私をただぱっと癒やすことを
されない理由は 病に問題があるのではなく
私の体調不良の根が
子どもの頃の環境が私にとって
安全ではなかったことにあり

それというのは 日本における
霊的な問題でもあるのだと思います

神様は 私を安全な環境に置き
それにより私の心を溶かすと同時に
私を置くことで その場所に
神様の御心を解き放って
おられるのだと思います

周囲については今は置いておくとして

私のことを言うならこの体験により
安全な中で幸せに伸び伸びと育ったような
人に対する劣等感も消えていきました

ですが 幸せを感じることで
子どもの頃に 子どもらしく
生きることが出来なかったことに対する
悲しみは増していきました

しかしこれは悪いことではなく
自分としては健全なことだと思います

若い頃は ないものねだりなんて
しても仕方がないとしか
思えなかったのですが

それは クリスチャンがよくいう
孤児の霊というものの中でも
一番質の悪いサバイバル状態の霊だからです

仕方ないと思っていたことが
悲しいと感じるようになったことは
とても健全なことだと思いますが

しかしその悲しみも一時的なもので
未来を神様が素晴らしいものに
変えてくださることや
過去を取り戻すに十分な恵みを
頂けることに希望は抱けても

過去は過去 過ぎた時間を
取り戻すことは出来ません

取り戻すことが出来ないことを
いつまでも悲しむことは出来ません

創世記で ヨセフが
結婚して子どもをもうけたとき

ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。 「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」
創世記 41:51

と言いましたから その時まで
ヨセフは苦しみ悲しんでいたわけで
別に時が来ているわけでもないのに
無理して今の状況を喜ぶ必要もない

いつか必ず忘れさせてくださると
信じるに値する神に希望を抱き
日々慰めをくださる神様が
共にいてくださることを喜ぶこと

それ以外に良いことはないし
それが最高のものであるわけです

以前のような諦めではなく
神様は 私のマイナスの経験を
何かプラスのものに変えてくださるのだという
神様に対する絶対的な信頼と希望

苦しみの中にあっても喜ぶというのは
そういうことであろうと思います

しかし 私はそこそこ経験もあり
その様に思えるわけですが
りゅうくんはそうはいきません

りゅうくんにとってはあらゆることが
はじめてのことであり 忍耐することも
知らないようなことがたくさんあります

そんな中で りゅうくんが
ネガティブな発言を繰り返すことがあり
それが私にとっては物凄い負担でした

その時々により どうやって
その状況を乗り越えるかは違いましたが

最近 駄々をこねている時に
どうして欲しいのかを尋ねてみました

と言っても ネガティブ発言中に
あなたはどうして欲しいの と聞いても
答えることが出来るわけがないので

もし私が 今あなたが言うような
ネガティブ発言をしたら
りゅうくんならどうする?

と聞いてみました

すると 頭を撫でる と言いました

私がネガティブ発言をする時というのは
相当の覚悟を持ち 本気でいる時です

というのは 言葉には物凄い力があり
軽々しく言うことが出来ないと
わかっているからで
その時に慰められたからといって
何かが変わることはありません

しかし 言葉の重さを知らない人というのは
ネガティブ発言中というのは
慰められたいものなのか と思いました

だから私が若い頃 覚悟を決めて物事を
終わらせることを言ったときに
冗談だと思う人が殆どだったのか
ということもわかりましたし

人が私のことを 有言実行の人だと
評価した理由もわかりました

要するに甘えてるのか と思いましたが
りゅうくんが私に甘えることは
悪いことであるとは思いませんし
(むしろ良いことかもしれないし)

自分ではどうにも出来ないのだろうから
甘やかすべきところだな と思いました

なので その言葉のとおりに
頭を撫でると同時に

わかってあげられなくてごめんね
と言いました

その後 りゅうくんが
ネガティブ発言をすることは
なくなりましたし
多分 ネガティブ発言をしだしたら
慰められる…かな?と思います
(思い出したら かもですが)

しかしこの出来事は りゅうくんが
ネガティブ発言をしなくなることよりも
大きな意味があったのです

この数日後に りゅうくんが不在で
母と二人だけになる機会があったのですが

その時に突然母が 子どもの頃の
私のことについて言い始めました

もし私が澄子と同じ境遇にあったら
とても耐えられなかったし
物凄い壮絶な中に置かれていたと思う
本当にごめんね

と言い出したのです

正直 何だ何だ?と思いましたし
私としては 別にそんなに言うほどの
出来事ではなかったと思っていたことについて
謝罪をされたことは驚きました

私がきつかったのは 環境そのものではなく
大人たちが私を放っておいても大丈夫だと過信し
大人たちが背負うべき重荷を私に
押し付けてきたことであり
環境そのものではないのですが

(もし私が置かれた環境が 母にとって
耐えられなかったものであるとしたら
私が周囲から押し付けられたことなど
母にとっては発狂するレベルかもしれませんが)

母がそのように 幼い頃の私のことを
思い図るだけの余裕を与えられたことは
神様によることだと強く感じました

また丁度そのことがあった頃
預言のミニストリーであるMPPで
神様がリセットする 元を正される
という預言があり

この母の悔い改めは 私との親子関係の
健全化だと感じました

そしてその夜 夢の中で
心にあったたくさんの「幼い頃の怒り」が
解放されました

また 更にその数日後である昨晩
結婚5年目の記念の日に
満面の笑顔で死んでいく古い自分の夢を見ました

死ぬのに笑顔か と思いましたが
それが私の本当の本心だったと思います

アダルの月の29日 大晦日に
古い自分が死んだ夢を見て
全てが新しくなり 新しい年を
迎えることが出来ることに
心から感謝をします

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