自分のやるべきことに集中する

先週 会社で大きなイベントがありました
奇跡としか言い様のない結果があり
本当に神様に感謝すると共に

私たちの日常にある大きな変化も含めて
今までとは全く違う「次のシーズン」に
入っていることを強く感じました

そんな中 最後の足掻きと思うような
大変面倒な感じのごたごたがあり
数日 その事がついて回るという
不愉快な時間がありました

自分のやるべきことに集中したいのに
思いを持っていかれてしまうのですが

それが神様に与えられている
思いだとは感じなかったので
どうやったら神様に自分の目線を
集中させることが出来るのかと
祈り続けていたのです

事柄と自分との間に境界線を引き
イエスさまの血潮で
守ってください という祈りも
ありますが 自分の内に原因があると
その祈りだけでは終わらないのです

祈る中でふと それを引き留めてしまう
原因が自分の中にあることに
光を当ててもらえるようにという祈りを
私だけではなくりゅうくんも
祈るべきだという思いが与えられたので
それをりゅうくんに伝えて
2人で祈りました

すると とてもほっとする感覚があり
その翌日には 集中するべきことに
すっと目を向けることが出来て
今まで煩わしいと思っていたことが
全く思い出せない程になりました

ですがその状態になって
私が言うべきではない相手に
神様から受けた恵みについて
話してしまったことが良くなかった
ということに気付きました

失敗したーと思うと同時に
その失敗を覆したいという
思いが物凄く強く与えられたので
神様にそれを願い求めました

すると 神様は私の周囲の人が
神様から離れてしまう原因について
全てが同じ理由であることと
私にもそれと同じ失敗の傾向が
あることを教えてくださいました

それは 良いことが起きたり
自分が願っていたことが目の前に置かれると
それの霊的背景を吟味することなく
神様からだ と喜んでしまうことと

自分が願っていないことが
目の前に置かれると 神様が
そんなことを言うわけがないと
否定してしまうことです

その様な人に傷付けられることが
何度もあったので
自分はそれをやらないようにと
物凄く警戒していたのですが

その様な意識を持つことも
表裏一体で縛られている状態にあるのです

ですが大切なことは
その人の霊的背景や使う言葉が
神様以外から出ているからといって
その人自身が敵だというわけではない

というところにあります

その人は知らないだけであり
別にこちらを攻撃したいわけではなく
その人なりに善かれと思って
やってることが殆どなのです

善かれと思ってやっているのなら
それに対しては 神様の介入を
祈る必要を感じます

ですが問題は 明確に
神様に反発している人です

神様に反発する人の多くは
神様の高い思いを見て(知って)
その上で神様に対して反発しています

知って反発しているのだから
介入を求めても火に油なのです

わかりやすい例を言うなら
ヨナ記のヨナが正にそれです

ニネベという自分が嫌いな人たちを
神様が救うことを決められた時に
神様は ご自身の思いをヨナに
伝えたかったからヨナが選ばれたのに
ヨナは逃げて反発し続けました

そこに居合わせた人は散々です
海で遭難しかけることになり
ヨナを海に投げ捨てなければ
ならない羽目に陥ったわけですから

ヨナはヨナで なんで私が
その任務に選ばれたのだと思ったでしょうが
ヨナが神様を慕いながら
神様と同じ心を持っていなかったからでしょう

最終的にヨナが神様のニネベに対する思いを
きちんと理解して受け入れたかどうかは
わかりませんが

ニネベの人にとってヨナは
救いの器ではあったわけですけど
ニネベの人がヨナに感謝を現して
仲良くなったという記述はありません

ヨセフが自分を奴隷として売った
兄弟たちと和解をした時のような
後日談はヨナ記にはないのです

ヨナは 悔い改めた人たちを見て
神様と共に喜びませんでした

神様の器だからといって
全員が全員 神様と心ひとつで
あるわけではないのです

私は 神様の心を知りたいし
神様がなさる良いことを
共に喜びあえる人と共にいたいです

そう考えた時に

私は悔い改めたニネベの人たちとは
仲良くなれそうだと思うけど
ヨナとは仲良くなれるかわからないな

と思います

ですが 御国にはヨナもニネベの人たちも
両方とも入るんだろうな(もういるんだろうな)

と思います

自分がもし ニネベのために
とりなしを任命されて
ニネベを愛する思いも与えられて
祈っていたとしたら

ヨナが現れて全てが変わったら
ヨナは神の使いです

でもヨナはニネベを嫌っていて
嫌々神様から示されたことを
やっただけで もしかしたら
救われたニネベを見て呪いの言葉を
吐くような人かもしれないのです

神様が祈りに答えてくださった
という感謝は間違えなくするでしょうが
救われたニネベを見て怒るヨナとは
仲良くなれないでしょう

滅びれば良かったのにと
ヨナが言うのを聞いたら
傷付くでしょう

自分の役目も愛する人のことも
否定されるわけですから
絶対傷付くと思いますし

神様の器として遣わされた人が
神様のみおもいと違うことを言えば
それも傷付くだろうと思います

傷付くでしょうが しかしすぐに
イエスさまだって至らない私たちのために
とりなしをしてくれている ということに
目を向けることで癒されるのです

神様に反発するものの言葉を
気にしないように というのは
以前示されたことがあるのですが

最近 それにプラスして
「あなたを傷付けるものを
自分の人生に招いてはいけない」
ということを示されました

霊的背景の違いから来る
ごたごたにだったら 神様と共に
乗り越えられる自信がありますが

神様に反発している
神様と共に歩く人との関係については
本当に いかんともし難いと感じます

神様から解決を与えられていない
ということは それに対応することは
私の召しではない(少なくとも今は)
という理解をしていますが

励まそうと思って神様からの言葉を
伝えても当然反発されるので
どこまで行っても平行線なのです

神様と歩きながら神様に反発する人は
神様といながら神様以外の言葉を使います

その人の言葉は その人が同意している
相手の言葉であるから
神様に反発しているならその人の口からは
神様の言葉が出ることはほぼありません

その人が神様に屈して
屈辱の中で絞り出す言葉だけが
神様からの言葉となります

その様な態度の人には
感謝を示しても喜ばれないので
それも傷付く要因になったりします

傷付けるものを自分の人生に招かない

逆を言うと私は多分
神様に反発する人を傷付けるようなことを
言ってしまっているのだろうと
思うことも多々あるので
離れなさい というのが正解なのです

神様が与えられた愛すべき人たちに
集中出来る環境が整えられつつあること

イエスさまの血潮により境界線が
きちんと引かれていることに
本当に心から感謝をします

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