良いもので満たされるために

最近 新しいことがはじまったり
新しいことの準備をしたりしています

その中で ネガティブな感情のマネジメント
というのがすごく強められていることを感じています

凄く嫌なことがあった時や
嫌なことを言われた時

昔(子どもの頃)の自分は それを
自分のせいだと思うことで
自分の心の整理をつけていましたが

それは敵の声に同意をしていたということを知り
敵に同意をしていたことを悔い改めて
敵を追い出し そこに開いていた扉を閉じて
神様に同意をすることを宣言する

ということを幾度となく繰り返しました

「思考の癖」なので はじめのうちは
切り替えるのに時間がかかりましたが
回数を重ねるうちに 悪い思いを掴む前に
その思い(を投げ込む敵)に同意しないことを
宣言し 敵を追い出し扉を閉じるという
流れになっていきました

その頃になると 神様が私に
この件について何を語ろうとしているのか
聞こえるようにもなってきました

多くの人は 相手が悪いという敵の声に
同意をするのにあなたはそれには同意をしなかった

ということを語られたのですが
そのことを思いめぐらしたときに

そもそも どちらが良いか悪いかという
「判断」は神様のものだということに
改めて気付かされるものとなりました

このことは以前 強く思いが与えられて
自分が自分を悪く思うことを止めるために
掴んでいたことだったのですが

自分の力(思い)でそれを強く思ったところで
自分自身を変える原動力にはなりませんでした

真理は何かを知っていたとしても
自分自身を変えることは出来なかった

でも 神様から与えられている権威を用いて
私の領域に不法に留まるものを追い出すことで
余計な思いは断ち切られて行き
神様の声が自然に入ってくるようになりました

今と当時 どっちの方が「必死」に神様を
求めていたかと言ったら 自分の信仰で
戦おうとしていた時だろうと思いますが
結局それは独りよがりでしかないわけです

大変な状態が長かったこともあり
大変じゃなくなった時に 燃え尽きではないですけど
暫くもういいわ という状態に置かれました

置かれた という表現をした理由は
別に自分としては頑張ろうと思えば
頑張れたのだけど しっかり休むように
神様から促しを受けたと感じるからです

これでいいのだろうか 間違ってはいないだろうか
そういった「余計なこと」を一切考えるのを止めて
暫くしたある日 人を通して
余計なことを投げ込まれました

すぐに 私がやるべきではないことについては
こっちに持ち込まないで欲しいと言いましたが
そこには霊的な働きを感じました

相手が人(ノンクリスチャン)の場合
相手の内から敵を追い出すわけにもいきません
(追い出して 空っぽになってしまうと
より悪くなると聖書に書いてあるからです)

ですが それについてはすぐに神様に訴えました

ダビデが自分を攻める人たちについて
訴えたように 神様に訴えたのです

すると翌日には 神様の介入があり
その人は別件で 上の権威の人から
「自分でやるべきことを人にやらせるな」と
言われることになりました

その人自身に悪意がない場合
霊的な雰囲気が変わることで
その場の雰囲気はすぐに良い方向へ変わります

悪意抜きに 人の心が頑なな場合はありますが
それでも何が良いのかを理解すれば
良くなりたい人は変わります

良くなりたいわけではないけど
置いて行かれるのが嫌な人も変わります

変わらない人は恐らく縁が切れます
神様はそういう人の自由意思も
尊重されますが 進むものと進まないものを
1つ所には置かれないと感じます

最近 私たちは神様の娘 息子と
されているわけですから
親だったらこんな時にどういう風に
思い 接してくれるのだろうとか
自分がどういう態度でいるのが
自然なのかな と考えます

落ち着いた環境になったから
こういうことに思い巡らすことが
出来るようになったのだと感じますし

思い巡らせば 神様はそれを
きちんと見せてくださいます

必死になってもならなくても
神様は常に一緒にいてくださり
良いもので満たしてくださいます

自分自身で戦わなくて良い日々に
心から感謝します

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