私の受ける報い

引き続き 大きな解放が与えられているのですが
神様が 悪いものを手放して立ち返るなら
その報いは大きい ということを示されました

報いが大きい という表現をすると
何か物理的な恵みのことを
思ってしまう人もいるかもしれませんが

神様が仰る報いとはそういうことではなく
手放したくなかった肉的な罪や不義を
神様のために手放したことに
対する報いのことです

もし 自分がそれを手放したのに
周囲の人が過去のままであったら
悪い霊は いつまでも自分の近くに
居座り続けることになります

ですが もし自分だけではなく
周囲の人のこともその罪や不義を
解放することが出来たとしたら

自分が得た解放の爽快感が
伝播していき 周囲の環境に
嫌な思いをしたり 巻き戻されたり
することはなくなります

周囲の人が頑なで 神様がまだその時期
その人たちを解放しないおつもりなら
距離を置くことになって

解放の恵みを受けとるに相応しい
人の元へと遣わされるのです

よく 解放された人は 他の人を
解放することが出来ると言いますが
違うんだな と感じました

もし 解放をする力を得るのなら
誰のことでも好きに解放出来るでしょう
しかし実際はそんなことはなく
解放されない人も出てくるわけですが

その時に 多くのケースで
解放されない人のことを傷つけます

であるとしたら それは神様ではなく
人がやっているのです

実際は 人を解放しているのではなく
神様が 解放される人の元へと
遣わされていくのです

過去の悪い私という種が
死ぬことを選び 死んだ時に
多くの実を神様が結んで
私のことを悪いものから守って
くださるのであり

刈り取りこそが 報いなのです

解放しに遣わされているのではなく
自分自身が実を結ぶ場所へと
導かれていって 自分が受けた解放の報いを
刈り取らせて頂くのです

私は 何かを食べて美味しいと思ったら
それを一緒に食べて 美味しいと
言ってくれる人がたくさん増えることを
幸せだと感じます

私が受ける報いは イエスさまの
パンとワインを受けて 一緒に
美味しいと言ってくれる人が
自分の周りにたくさん増えたら
幸せだと思うだろうな と思いました

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