神の民としての勝利を掴む

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今週は 泊まりがけで仙台出張がありました

また週末は 母を病院に連れていったり
りゅうくんを散髪に連れていったりと
先月に引き続き 休まらない日々が続き
家のことが滞っていることがずっと
気になっていました

今週こそは台所と洗濯物を
片付けようと思っていたのですが

ところがりゅうくんが 絶対に
やらせない 僕がやると
物凄い剣幕で言うのです

とは言え私がやらないと片付けが
終わらないと思っていたのですが
土曜日の夜に 右手の指を切ってしまい
台所仕事が難しくなってしまいました

りゅうくんがやるなと言っているのに
やる気だったせいだなーと反省して
大人しくしていようと思っていたら
日曜日になり 疲れが出たのか
微熱まで出て来てしまいました

仙台に行く前にも少し体調が優れず
1日お休みを頂いていたのですが
自覚はなくても疲れが本当に
溜まっているのだなぁと
りゅうくんと神様に感謝をしました

(しかし月曜日は早朝に会社に
行かなければならないので
微熱とその原因が今日中に
完全に打ち砕かれることを
どうかお祈りください)

今回の出張では多岐に渡り
今まで漠然としかわかって
いなかったことに光が当てられ

これで滞っていた物事が前進する!という
希望を見出だすことが出来ました

その中でひとつ気になったことが
「怒り(憤り)」というものでした

怒りというのは憤りの現れなので
ここでは憤りについて書きます

憤りの感情について過去の私
(クリスチャンになる前)は
「効果的に取り扱うことが出来る感情」
という風に考えていました

憤りを溜め込んだら腐らせるし
全く関係ないところ というか
弱者に向けてぶつけるなら
ただのいじめ 八つ当たりになりますが

憤りの根を掘り下げれば
人を解放したり 物事を前進したり
させる力になると考えていたのです

そしてそれはクリスチャンになって
真理であったと感じますが
その憤りを「自分で取り扱う」のでなく
神様に委ねることで全てが
本当にプラスになるのです

赦す ということをよく言いますが
聖書ではどちらかと言うと
怒っても罪を犯してはいけない
という表現が目立ちます

また供え物をする前に兄弟と
うまくいっていないことを思い出したら
和解してから供え物を捧げなさい
という表現もありますから

憤るような事柄について相手を
赦すことは手段であって
平安にとどまることが
本来なのだろうと思っています

実際過去に神様は 赦すことは
相手のためではなくあなたのためだと
示されたことがありますし

赦せないという感情を抱くことは
様々な病や破壊の源になると感じ
それは神様の性質ではありません

そしてその「神様の性質ではないもの」を
掴んでいれば 神様からの良いものが
受け取れませんから まずはそれを
神様に委ねてしまうわけです

それは本当に簡単なことで
(むしろ変にこねくりまわしてはダメで)

神様 どうにかして!!!と
叫ぶだけでいいのです

エリヤが列王記上19章の10節(と14節)で
「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて
仕えてきました。ところが、イスラエルの人々は
あなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、
預言者たちを剣にかけて殺したのです。
わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの
命をも奪おうとねらっています。」
列王記上 19:10 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/1ki.19.10.新共同訳

というように ただ訴えることも
「とりなしの祈り」であり
神様はこの様な訴えに対して
公平に取り扱ってくださるのです

公平に というのは
神様の目線において公平であり
自分に非があるならその非が
取り扱われて 良い方向へと
成長することが出来ますし

不当な攻撃に対しては
あなたのために作られた武器は
どれも役に立たなくなる という
約束を誠実に果たしてくださるのです

今日の礼拝のはじめに 正に
このことに対しての答えと言える
証とみことばが語られました

あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、
決して見捨てない。 恐れることはない、
わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。

見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆
恥を受け、辱められ 争う者は滅ぼされ、
無に等しくなる。
争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず
戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。

わたしは主、あなたの神。
あなたの右の手を固く取って言う
恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
イザヤ書 41:9‭b-‬13 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/isa.41.8-13.新共同訳

実際は新改訳で語られましたが
証をされた方がこのみことばを
読まれたときに 涙が出ました

今これを神様は私に強く
語られていると深く感じました

また QTでは敵が多かったダビデの
人生について語られて

正直 それが自分の人生に
当てはまることだとは
あまり考えたくはなかったのですが

しかし私にもりゅうくんにも
またいずれ産まれてくる子についても
「ダビデ」というキーワードが
語られているので この件は
しっかり掴むべきところだと思いました

神様の励ましと固い守りに
本当に 心から感謝します

—–

以下はFacebookの記事として
掲載した前身の文です
備忘録として書き留めます

仙台から帰った翌朝のQTを受けて書いています

あとで日記にも書くけど
今朝QTを通して示されたこと

怒りや憤りを「赦す」のではなく
怒りや憤り=神様から与えられていない感情を
神様に渡して 神様の良いもので満ちなさい

自分に対する怒りも
他人に対する怒りも
どちらも「神様から与えられていない」

悪いものから与えられたか
人から与えられたか
自分が勝手に怒ってるだけだ

しかし神様は怒りの感情を
抱いてはならないとは言っていない

怒りを制しなさい
罪があなたを招いてるよ と
神様は言われたのだ

また違う箇所には 怒っても
罪を犯してはなりませんと
書かれている

怒りという感情は 人が制するべきもので
神様には責任がない

しかし 神様は本当に良い方であり
公平な方である

神様に怒りを明け渡せば
それに対して神様は
公平に判決を下してくださる

明け渡す ってのはすごく簡単に言えば
この怒りをどうにかして!!!と
叫ぶだけで 他に何も加える必要はないし

自分に対する怒りも
人に対する怒りも同じで

例えば何か失敗をしてしまい
自分に対して怒った時に
神様どうにかして!!!と叫べば
失敗をしないための助けが来るのだ

自分の問題だと思っていたら
他の人が取り扱われるなんてこともある

自分に非があるなら自分が取り扱われ
他に問題があるならそれが取り扱われる

それはとっても公平であり
立場だとか人の思いとかは関係がない

神様の判決はいつでも公平で
愛で満ちており 神様が介入された
領域は全てがプラスになる

自分を変えようとか
人を変えようとか思わずとも
また自分がどうにかしなくちゃとか
他人が対処すべきとか思わずとも

神様に問題を持っていけば
変わるべきものが変わり出して
全てがよくなるのを見ることになる

本当に感謝だと思いました

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