神様が喜ぶ捧げ物

朝起きると 最近ずっと思い巡らしていた
神様が喜ぶ・喜ばない捧げ物について
突然 まとまった思いが沸き上がりました

何となく思っていたことが
聖霊さまによりまとめられた
という感じだったのですが

パウロはイエスさまに出逢う前
神のためなら人を殺していいと
思っていました

しかしそれは神様により段々
砕かれていきました

付きまとう占い師の背後の霊を縛ると
鞭打たれて牢屋に入れられました

そこでは奇跡により地震起きて
看守が家族全員救われるという
出来事がありましたが
その後 パウロは伝道するために
神様に励まされる必要がありました

また 自分の伝道活動が引き金となり
他の人が鞭打たれることが起きました

パウロはその時 騒ぎの中に
入っていこうとしましたが止められ
代わりに他の人が群衆に暴行を受けました

その様な事が起きる中での
パウロの胸中はどうだったのか
というのが最近ずっと
思い巡らされていたことでした

自分が打たれるのはもしかしたら
構わないと思っていたかもしれません
しかし他人が身代わりになるのです

ですが イエスさまはその様に
私たちの罪を負われました
罪を犯していないのに
罪の身代わりになってくださいました

誰かが自分の犠牲となることに対して
痛める心がないものには
神様の愛がわかりません

神様のために人を殺しても
良いと思う熱意に対する思い違いを
神様は戒めたり 諭したりするのではなく
体験を通して教えられていると感じます

旧約聖書の中で 勝利の捧げ物として
最初にドアを開けた人を神に捧げると言って
自分の娘を捧げることに
なってしまった人がいましたが

自分の娘が入ってきたのを見てはじめて
その人は「人を捧げる」ということの
本当の意味を理解したのです

正に 神様への最高の捧げ物は
砕かれた心だということです

子どもを捧げるということを考えると
アブラハムがイサクを捧げるよう
神様に示されたことが思い浮かびます

それに対して なんて酷いことを
言う神なんだと怒っていた人がいましたが
しかし私たちは神様がその様な思いで
イエスさまを捧げてくださったことで
救われたことを理解する必要があるのです

神様は 生け贄を好まれません
律法で定めていた羊だって
本当は一緒なのです

ですから 心が伴わずに
捧げ物をする人たちに対して
神様は憤りをあらわにされました

軽々しく命を捧げるという人に対して
神様は ご自身の思いを知らせます
それは自分の命でも人の命でも
同じなのだと思います

神様は 神のためと言いながら
為される暴虐を好まれません
感謝を捧げると言いながら
人を殺そうとする人を神様は
砕かれました

神様のためになら命を捨ててもいいと
思う人ほど命を受けるのです

そして今朝 強く思ったことは
裁きを霊的に見るとそれはもう
人殺しと変わらないということです

人を非難し罵倒することは
霊的には人殺しと変わらないのです

それは 水を容器に入れて
罵倒する言葉を言い続けると
顕微鏡で見たときに組織が
破壊されているということでもわかります

裁く思いは裁く言葉となり
人を死へと追い込みます

ですが脳は主語を理解しないので
実はその発言をしている人が一番
死の宣告を受けているのですから
自殺行為であるとも言えます

そんな霊的な真実を知らずに
言葉を使っていたということや
今もそれを知らずにいる人が
たくさんいるのです

(取り敢えず最も身近なところで
親の世代がそうなのですが)

私の中では 言葉を話せなくなり
寝たきりになってやっと悟った
父親を見て その様な状況になって
初めて知るのではなく

もっと元気なうちにそれを悟って
穏やかで幸せな愛の関係をきちんと
気付いて欲しかったと思いつつも

悟るために通る痛みを伴う道も
恵みなのだと自分に言い聞かせている
というところがあるのですが

戒めたり教えたりする形ではなく
神様の御恵みによりそれを
悟ることに勝る恵みはなく
私はそれを見たいのだと思うのです

何となく 誰のどの事柄について
示されているのかはわかっているので
祈り求めたいと思います

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