聖書にある教会の姿

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昨日の午後と今日の午前・午後は
「使徒的教会の台頭」の著者の一人
ロバート・ハイドラー師による講義で

そもそもで 今の「牧師がいて信徒がいて
牧師一人がケアをする形」というのは
ローマがキリスト教を国教とした時に
ミトラ教をベースにして ローマが教会を
管理しやすいように作った形であり
全く聖書的ではないというお話でした

実際 聖書に「牧師(たち)」という単語は
1回しか出て来ていません

ミトラ教というのは調べればwikiに
すぐ出て来ますが 太陽神を崇める多神教です
(ちなみに日本神道も 太陽神を崇める多神教です)

カトリックとミトラ教の関係について
ミトラ教で調べた時に2番目に出てきた
「カトリックの司祭などが被る帽子」が
そのまんま「ミトラ」という名前です

カトリックがミトラ教を土台にしているのは
秘密でも何でもなく公然の話なのでは?と
思わず突っ込みを入れたくなりました

では聖書に書かれている教会とは
どういうものかというと

まず ペンテコステにて教会が誕生し
その日に救われた3000人が使徒たちにより
教えを受けつつ 共に生活を始めましたが
この時いわゆる教会という建物はありません

イエスさまもそうでしたが 宮や家で教えました

そしてステパノの迫害により
「使徒はエルサレムに残り」
弟子となった新しい信者たちだけが
地方へ散らされました

出ていったのは信徒だけというのは
大きなポイントです

そして 散らされた先で福音を伝え
癒しや奇跡や悪霊追い出しをして
人が救われはじめると エルサレムから
使徒が派遣されて人々を教え始めたのです

使徒が教会開拓をしたのではなく
信徒が開拓をして 必要に応じて
使徒 預言者 教師が派遣されたのです

これは聖書的に正しい教会の姿であり
イエスさまの 出て行って福音を伝え
国々を弟子としなさい という表現にも
ぴったり合っている働きになります

しかし キリスト教を国教にした
コンスタンティヌスは この形の教会では
ローマ帝国が教会を管理出来ないため
ミトラ教を土台として 司祭を立てて
人々を建物に押し込めて管理しはじめました

というのも コンスタンティヌスは
太陽と十字架の幻を見たために
イエスは太陽神の使いだと思ったそうです

ミトラ教の神に ミカエルなどの
キリスト教的な名前を被せて
ミトラ教と同じ儀式をしており
この時代の信徒は聖書を読むことも
儀式に参加することもなかったそうです

宗教改革においてルターは カトリックが
聖書以上のこと(特に免罪符の販売)を
やっていることに対して異論を唱えましたが

しかし 教会の形については聖書的な
理解がなく ただ単に司祭にあった過剰な
権限や縛りをなくして牧師という名にして
牧師が聖書を教え 信徒はただ学んで
牧されるだけという形が残ってしまったそうです

勿論 牧師という役職も大切ですが
目的は イエスさまが行ったミニストリーが
出来るように人々を建てあげること

預言者が神様から受け取った
青写真を元に現場監督の使徒が土台を据えて
伝道師 牧師 預言者 教師 そして使徒が
協力してイエスさまを伝える人を
育てることが目的なのです

実際 イエスさまは12人の使徒の他に
70人の弟子を遣わしていますが
イエスさまはお一人でその五つの職務を
こなされていたから一人でなされました

しかし使徒たちは聖霊を受けた後に
一人ではなく 何人ものチームで
イエスさまと同じことをしたのです

伝道師が奇跡や癒しにより人々を救いに導き
牧師が心のケアをして励まし建てあげ
預言者がその人に神の計画を伝え
教師がその働きに必要なものを教え
使徒が そろそろ大丈夫だと見たところで
預言者から受け取った青写真に基づいて
建てあげた人を派遣するのです

普通の信徒が奇跡を起こしたり
人に教えたりすることが出来ることは
政治家にとって不都合だったのでしょう

また 神の戦略を受け取って
マネジメントする人が何人もいるのも
政治家にとっては不都合だったでしょう

始まりがそのようなものだったとして
知らず知らずのうちに自分が
その仕組みの歯車になっているとしたら
どうでしょう

今の時代 人々を安全な場所で
ケアして励まし建てあげたい牧師が
リスクある神様の召命から人々を
遠ざけてしまっているとしたら

本来 神様から与えられた賜物を
牧師に封じられているとしたら

そもそも牧師と名乗っている人は
本当に牧師の賜物の人なのか
本当は教師なのに 伝道師なのに
賜物がない領域を一所懸命肉の力で
頑張っているだけかもしれないとしたら

と いうことをあれこれ考えはじめると
さもありなん と思うことだらけですが

問題は そういう状況において自分自身が
何を選択して何を行うか です

(以上が昨日の午後の講義でした)

そして今日の講義は それに対する答えとして
ユダヤ歴 5780年がどのような年か
という話になっていきます

ローマがキリスト教を国教とした時
カレンダーもグレゴリオ歴になりましたが
しかし 神様はご自身のカレンダーを
変えることはありませんでした

昨年までの5770年代は
ע(アイン ayin)が象徴する時で
アインには 目(eye)の意味があり
ビジョンを見る もっとよく見るという
意味があったそうです

そして80年は昨日の日記の通り
פ(ぺー pe)が象徴する時で
ぺーには口という意味があります

他にも息 語るという意味があり
פ(ぺー pe)から始まる言葉には
顔 祈り とりなし 解放といった
言葉があるそうです

この時期に 神様から示された
預言的な宣言を 口に出して言うことは
とても重要なのですが このことには
恐怖が伴うことがあります

モーセもギデオンもエレミヤも
神様から遣わされる時に恐れました

また現代においても とてつもなく
大きな預言をする人は それを宣言する時
大変恐ろしい思いをするそうです

チャック・ピアス師がフセインの逮捕を
預言した時は 震えており
とんでもないことを言ってしまったと
呟いていたそうですが しかし
その宣言があったから神様は地に
御手を伸ばしてくださるのです

エゼキエルは 神様が骨に向かって
この様に預言しなさいと促されると
神様が仰った通りに声に出して宣言しました

エゼキエル書37章5節
これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。
見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。
すると、お前たちは生き返る。

神様は 奇跡をただ起こすのではなく
人の協力によって起こされます

神様は 人をご自身の協力者として
それぞれにあるご計画に沿って人を
建てあげたいと思っておられて
預言者が神様から青写真を受け取り
使徒がそれに従って人々を派遣しました

バルナバは 立ち上がった教会を見て
パウロを呼んで教えさせました
自分でやらずにコーディネートしたのです
使徒というのは最も低く神の賜物を持つ人々に
遣える人であり 五役者というのは
賜物に応じてそれぞれが役目をこなすのです

人は神様に似せたものとして作られ
言葉を持っている それは本当に
とてつもなく大きな責任があります

その力は敵の嘘を宣言しても
力を持ってしまうからです
実体のない悪魔たちは 人に嘘を
宣言させることでしか力を得られません

神の子であるはずのクリスチャンが
知らず知らずとはいえ 悪魔たちに
力を与えて良いはずはありません

神様は 新しいワインを注ぎたい
だけど古い皮袋に注げば破れてしまう

だから まずは自分自身が古い考えを脱ぎ捨て
新しい神様の皮袋になる必要があります

賜物でもなくご計画でもないことを
どんなに続けていても 神様はそこに
ご自身の力を現してはくださらない

憐れみは示してくださるかもしれませんが
御心のないところに力は現れないのです

自分が何に召されていて どんな賜物があり
神様はどの様に自分を導かれるのか

多くの人が それを知りたくて
飢え渇いていると思うのです

私自身も クリスチャンになったきっかけは
(本当に様々なことがありましたが)
そろそろ自分の産まれた意味を知るために
聖書を読んだら?という言葉でした

人は両親の行為によりたまたま産まれた
存在などではありません
神様が時を選び 環境や場所を選び
目的をもって一人一人を創られています

そこから引き離すものは何もないのです

共依存の被害者になってはいけません
また 悪魔の共犯者になってもいけません
神様を信じているつもりで
他のものを信じていたということが
死んだときにわかるのでは遅いのです

過保護な幻想に縛られ 本来の命を
生きることが出来ず苦しみ
そこからの解放を本気で願う全ての人が
神様のエキサイティングでクリエイティブで
豊かな実りある命に出逢うことを宣言します♥️

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