解放を神様に願う

昨日のりゅうくんの態度についてもですが
子どもを産む前に何がなんでも
りゅうくんに理解して欲しいことがありました

それは 私に対する甘えについてです

例えば 足が悪い母をどこかに誘う時は
必ず足場の確認をした上で 本人にも
どこまでなら大丈夫かを確認して決めます

それはりゅうくんも出来るしわかっています

なのに何故 私のこととなると
ゼロか1か になってしまうのです

例えば 自分がラーメンを食べたいなら
ラーメンも食べられて 私が食べられるものも
ある店を考えれば良いだけで そういうお店は
少なからずあるわけですが りゅうくんの中では

ラーメン食べたい
でもすみこが行かないと行けない
(一人では行きたくない)
でもすみこは食べられない

で止まってしまうのです

と いうことは言わずもわかっていましたが
念のため こういうことだよね?と
りゅうくんに聞いてみると アーメンとまで
返事が来たので間違えなかったようです

それで思考停止して私に負荷をかけることを
本人は 甘えであると認識しているようなので
その甘えは神様に対してだけにしてくれと言いました

正直 子どもが産まれた後まで
こんな思考でいられては(こっちに依存されては)
たまったものではないからです

しかし この会話をしている時に
ふと 自分の中に何か物凄い怒りが
隠されているように感じたので
その感情の根を探ってみると

子どもの頃 親と一緒にスキーへ
行ったときのことが思い出されました

スキーの経験は殆どないか初めてぐらいで
その日は吹雪いており 少し先までしか
見えないような悪天候でした

スキーを借りる小屋のような場所から出ると
すぐ横に崖があり 恐れを感じて
遠くへ連れていこうとする親に
吹雪が収まるまで外に出ないと抵抗すると
時間がなくなるからと言って
置いていかれてしまったのです

その時に親に抱いた怒りは相当なもので
このまま飛び降りて死んでやるというぐらい
怒りに満ちていたことを覚えています

その時は結局そりなどで遊んで
後日 スキー教室に入れられた気がしますが
他の件については思い出したらすぐに
赦す祈りをして簡単に手放せるのに
この件についてだけはどうしても
怒りの感情を手放すことが出来ませんでした

今思い出しても スキー経験の浅い子どもが
吹雪と崖を見て怖がっているのに無理やり
滑らせようと連れていくことについても
小屋があるにしろ崖の近くに子どもだけを
置いて親だけ遊びに行くというのも
非常識過ぎると思うからです

ですが この怒りはそのまま
りゅうくんが 私が食べられないものを
食べたいと言いながら 代替案を出せずに
いることへの憤りと重なっていると感じました

怒りが手放せないのは 恐らく
命の危険と隣り合わせのこととして
記憶しているからだろうと思ったので
神様に この件についての取り扱いを
委ねる祈りをしました

神様からは わたしから注ぐものは
悔い改めにしろ恵みにしろ
命に繋がるものだけだよと
語られたので どういう状況であれ
最後には全て良いものにしてくださる
神様に期待をしようと思いました

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