神様の愛を受ける必要性

今日は 神様から取り次ぐ言葉について
どんなに言いにくいことでも
人の気遣いなどで組み換えてしまえば
奇跡は現れなくなる ということを示されました

りゅうくんが再三 言葉に足しても引いても
いけないと示されていますが それを再度
私にも示してくださるような形でした

しかしそれは 私がそれをやっている
という意味ではなく 奇跡が起きていない現場で
その様な組み換えが起きているんだよ
ということに目を開かせてくださった
という印象でした

確かに そういうところでは神様の言葉も
良い話だなーで終わってしまっているのです

そしてその事は 結果として
人を健全に育てるという面で
支障が出ることを示されました

神様が注ぐレーマにより人は成長するので
その言葉を気遣いなどで歪めれば
養われるべき人達の成長に問題が出る
ということだと思いました

実は最近 ある姉妹と教えることについて
話す機会があったので それに対して
教えてくださったように感じました

また 先日父親の件についてとりなした後
自分でも引き続き父について色々と
思い巡らしていたのですが

要するに私は 父に愛されたいのに
愛してくれないから自分が自分の理想の
父親のような存在になってやる
という反発をしてたのだなぁと思いました

その反発をどかせば 単純に
父に愛されたかった ということになりますが
父に愛を注がれなかったのでやっぱり
父親に愛されるというイメージが
全くわかないままであるわけです

その事をりゅうくんに話すと
僕がパパになると言うので
嬉しいながらも その為にはりゅうくんも
もっとたくさんパパの愛を
受けてほしいと思いました

またもうひとつ 悪いものの見分けの
ポイントについても教えてくださいました

それは 良いものを知らなければ
悪いものはわからない ということでした

また悪いものが悪く感じないのは
それと同質であるためだとも示されました

新しい良いものを知り
自分のチューニングをそれに
合わせていくことで 悪いものを
見分けることが出来るようになる

簡単に言えば神様に良いものを
たくさん注いで頂くしかないと思いました

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