イエスさまの命を生きる

昨夜 なんとなくこれかな?と思うような方向性を
神様から示されたのですが りゅうくんの仕事が忙しく
霊的な一致の確認が出来ないまま朝を迎えました

そして迎えた礼拝メッセージは 自分にとって
本当に必要なことが含まれており
メッセージを聴いた後 深い悔い改めに導かれました

以前からずっと書いていますが 私の中では
自分の罪は自分で背負うという思いが物凄い強くあり

どうして罪も傷もないイエスさまが私のような罪深い者の
身代わりにならなければいけないんだ という
抵抗感からクリスチャン生活をスタートさせました

しかし救いは2千年前に既に完了しているのだから
そんなことを言っても仕方がないから
どうにかその恵みを受け取ろうと四苦八苦していたわけです

その過程で 代々続く呪いの打ち破りや
敵の嘘を鎮めるということを経験し あとは
自分自身の罪悪感を手放すばかりであったわけですが

今日は 正にその破れ口となっているところを
全て手放す祈りへと導かれたのです

その時にやっと イエスさまと出逢う前は
私は本当に一人で歩いてきて 自分の力では
どうすることも出来なかった問題が

イエスさまと出逢い (洗礼により)イエスさまと共に死に
イエスさまを着て新しい命を与えられた時には
罪も傷もないイエスさまの人生を生きることになった

洗礼を受けた時に 古い自分は全ての問題と一緒に死んだのだ
ということを物凄く深く実感することが出来ました

今まで 花嫁(イエスさまに嫁ぐもの)という形で
そのことを認識していましたが どちらかというと
33歳で亡くなられたイエスさまが生きるはずだった続きの人生を
私という器でイエスさまと一緒に生きる というように感じました

罪も傷もない人生の続きを生きるのです

以前は 古い自分を捨てるときに そうは言っても
何十年も積み上げたものを捨てるのか という思いが
強くあったのですが それすら本当にどうでもよいと思いました

だって 死んだわけですから

昨日示された 何も知らないものとして神様を掴むというのは
こういうことだったんだなぁ と思いました

また 先日私に福音を伝えてくれた人は
いなかったということを書いていましたが

そういえばクリスチャンになる前のりゅうくんが
イエスさまの救いについて一所懸命言ってくれたなぁ
と 思い出しました

ということは 私に福音を伝えてくれたのは
りゅうくんということになるんだな と思い
りゅうくんが本当に私を愛してくれていることに感謝をしました

夜になり りゅうくんにもう一度
私が神様から示された方向性を伝えると
足元から泉が湧き出るようなビジョンを見たと伝えられました

それであればこの方向性で合っていると思ったので
前に進むことにしました

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