神様に目線を引き上げて頂く

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最近 神様に真剣に祈っていることがあります
それは聖会の直前に 神様から「前味」を
味わわせて貰った事柄です

主に車を運転している時に 不平不満を
言わないようになりたいのです

しかし 露骨に嫌がらせのようなことをされたり
非常識な運転(ウィンカーを出さずに車線変更をしたり
制限速度以下で走っていたと思ったら突然
ウィンカーを出さずに止まるなどが多いのですが)を
目の前でされると つい文句やぼやきが出てしまいます

ですが 子どもが親から離れて駆け出しそうに
なる時などは 例え危ないと思っても文句は出ないので
単純に(先日書いた 権威者の弱さを
予測して許容するか 予測出来ず傷付くかと同じで)
想定外の出来事に対する心理的余裕の問題なのです

事前に 危険な運転を見ることがなく
ストレスを感じないようにと祈ることも出来ますが
自分の心のキャパシティが広がらない限りは
同じことで頭を抱えることになるでしょう

しかし 自分の努力で思いを変えることは
問題に問題を上塗りするようなものなので
ただ神様に祈り求めることをしていました

そんなことを思っていた時に
聖書を原文に忠実に訳している人が
ヤコブの手紙1章9節にある「貧しい」は
「(子どものように)へりくだる」という箇所と
同じ単語が使われており これは命令形である
と記していました

ヤコブの手紙1章9節というのは新改訳では

貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を
誇りとしなさい。

と訳されている箇所ですが 原文通りに訳すなら

今、主の臨在の中で低められよ。
主はあなたがたを大いなる者とするだろう。

になると記していたのです

これを読んだ時に 自分でどうにかするのではなく
ただ自分を低くし へりくだるだけでいいんだ
というシンプルな思いを与えられました

そしてその後に 昨日も読んだはずの
ある本を読んでいると 昨日とは全く
違う目線でその本を読んでいることに気付きました

どの様に表現すればいいかわからないのですが
今までは 自分の内にあった余計なものに
遮られて見えていなかった神様の思いの高さを
感じた という感覚です

分かりやすい例えで言うと
自分が犯したと思っていた罪に対して
神様が全く違う角度からその出来事を
言い表してくださった時に

以前だったら 神様はなんて大きくて優しくて
憐れみ深いのだろう と感じただけだったのが
突然 神様と同じ目線に引き上げられて
神様が仰有る通りにその出来事を捉えられるように
なった という感覚です

自分を低くするというのは 下を向くことで
後頭部に神様からの憐れみを受けるのではない
ということが直感的にわかりました

この感覚を 今この瞬間だけではなく
24時間365日 常に保てるようになりたいと
心から思いました

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