イエスさまの言葉と燃える炭火

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今日 神様から示されたことは
神様がこれをしなさいと示されているのに
しかし私はこう思う と反論するのは
神よりも自分を高くしている高慢だということで

大抵 高慢の背景には恐れがあるという示しでした

恐れていることを隠そうとして高慢になる
というのはよくわかります

自分は価値がない者だと思っていたら
自己主張をしてしまったり
過ちや負けを認められなくなる
といったような感じでしょうか

聖書はその事を 刑罰が伴うからだと表現していますが
価値がなければ存在していてはいけないと
思い込まされるような追い詰められ方をしたり
欲求が満たされない状態が続くことで
自分に価値がないと思ったりする状態において
恐れというのが入るのだろうと思います

そんな事を示されて ふむ と思っていると
りゅうくんが神様からQTを通して
書いたことや言ったことを恥じて
破り捨てようとすることはない
それを否定するのは私を否定することだよ

ということを語られていました

りゅうくんが伝えることの多くは
本当に愛のあることで 相手はとても
励まされているのを見ているのですが
もしりゅうくんがそれを否定するとしたら
神様の目線で見れていないことになります

(実際 伝えることでいっぱいいっぱいで
相手がそれをどのように受け取ったかを
見ていないのだと後で気付きました)

私は人に 思い違いをしていると指摘しなさい
というような事を示されることが結構あり
それで自分が嫌われたり煙たがられたりしても
神様からの示しだからマイナスにはならないと
信じて(勇気を持って)伝えるようにしており

受け入れてくれれば感謝だし 拒絶されれば
神様が この人はわたし(神様)を拒絶しているのであり
あなたが拒絶されているのではないから
傷付かないでね とフォローしてくださいます

どんなに恐れがあろうと実際には
神様にかたく立つ人に嫌われるようなことは
絶対にないということを体験により知っていて
相手が神様のレーマで成長するなら
それに貢献出来たことを本当に感謝しますし

神様の再三に渡る励ましを受けたので
自分のアイデンティティを見失うことはありません

ですが 人とのコミュニケーション経験が少なく
神様の召しに対するコミットも弱いりゅうくんには
まだ重たいことなのだろうと思います
(ですが場数を踏むしかないですよね と思いますが)

仮に神様からの愛や召しを掴んでいたとしても
人の目や自分の思いで非常識と見えることを
やりなさいと示される時には勇気が必要で
自分の中に全く恐れがなくなるということも
恐らくはないのだろうと思います

問題は 恐れることではなく
その時に敵が投げ込んで来る嘘に
同意するか否か なのです

神様に同意をし続ければ
神様の奇跡を見続けることになり
敵の嘘に同意すれば それ相応の事を
刈り取ることになります

相手が拒絶するのを見て傷付くことも
もしかしたらあるかもしれませんが
りゅうくんの場合 傷付くことなく
ごり押しするタイプで 今神様はその件も
取り扱われているように感じますが
(神様の言葉は伝えることだけが私たちの仕事で
人の自由意思をコントロールしようとするのは
分を超えたことで 敵の性質だからです)

少し視点を変えて表現をするなら

私はクリスチャンになる前から
不幸に留まっているべきだと言う人の意見は
絶対に聞くべきではなく

自分が尊敬出来ない生き方をしている人の
アドバイスには耳を傾けてはいけないと
思っていたのですが

敵というのは正にその様な存在で
人には不幸に留まっていて欲しくて
尊敬出来ないような事ばかりしているので
私の価値観では耳を傾けてはいけない相手です

対してイエスさま(聖書の教えを全うされた方)は
恵みと不思議と奇跡 神様の喜びにいつも溢れて
自分の必要に欠くこともなく 神様が満たしたい
全ての必要を満たすことが出来たのです

しかしもし愛するべき人 尊敬するべき人が
敵に同意した悪い状態に陥ってしまっていたら
(敵に同意し 敵の言うことを口に出すようなら)
どうするべきなのでしょうか

聖書には 敵を愛し敵の祝福を祈れと書いてあります
それは背後の敵のことではなく敵対する人のことです

神様に示され従う時に それを悪く思う人というのは
神様がなさることよりも自分の思いを高くしている人です
神様のレーマよりも自分の信じる信仰の方が
正しいと思っている人かもしれませんが

であるとしたら 今生きておられる神様というのは
その人にとって一体何者なのでしょう

私は神様に従っているので 神様は私をかたく
守ってくださり傷付くことはありません
仮にそのような人が自分を悪く言ったとしてもです

故に とりなしをすることは簡単ではあるのですが
実際は それによって相手の頭の上に
燃える炭火が積まれているのではないだろうか
と 思う時もなくはありません(というか多いです)

愛とはなんでしょうか

間違えた人に そのままでいいよと言うのは
恐らく いや間違えなく悪魔の囁きであって
愛からかけ離れたことであろうと思います

愛というのは好いたり好かれたりすることではありません
自分を殴るものを好きである必要はなく
しかし愛しなさいと神様は仰るのです

イエスさまは ご自身が殺意を抱かれても
パリサイ人や祭司たちに真理を語りました
しかしイエスさまの時が来るまでは
彼らから身を隠すこともありました

イエスさまが癒されたのは神様を必要とする人で
イエスさまが教えられたのは聞く耳を持つ人でした

山上の垂訓の終わりの部分は 原文では
イエスさまは 霊に満たされるべき人が
満たされるまで話されたと書かれているそうですが
正に 知恵知識に加えて聖霊の満たしが必要なのです

神様を愛する人は 神様の言葉を愛します
また神様は人以上にその人を愛しておられます

神様は紳士なので 人に恥をかかせません
またその人がその時点で理解出来ないようなことも
神様は仰有ることはないと聖書を読めばわかります

であるとしたら たとえ耳に痛いことであっても
乗り越えられる・受け入れられるからこそ
語られているのだということがわかります

しかしそれは 人によるものではないのです

昨日の日記に書いた通り
わきまえは人の知恵知識によるのではなく
聖霊さまによって与えられます

知恵知識を聞いたときに悟らせてくださるのは
イエスさまが公生涯をされている時から
今も変わることなく聖霊さまなのです

弟子たちは特別に 解き明かしを受け
新約聖書の手紙にはその解き明かしがたくさん
示されているのだと思いますが
弟子たちにわきまえと悟りを与えておられるのは
勿論 聖霊さまであるわけです

聖霊さまに心を開き 教えられる人は幸いです
その幸いが 全地に満ちることを祈ります♥️

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