恐れの正体

今日も昨日に引き続き なんとなく
イライラするようなことが続いており
どこに問題があるのか見極めようとしていると
神様からの啓示で それを垣間見ることが出来ました

神様からの啓示自体は ルカの福音書において
放蕩息子が父から離れていくのを
父は止めなかったけど 離れた後に守ることも
しなかったでしょう?というところから

神様は 人の自由意思は尊重するべきだが
神から離れて失敗する人を追いかけていき
連れ戻そうとしたり助けようとしたりはしなくてよく

本人が気が付いて助けを求めるために
帰って来た時に助ければよいのだと示された上で

人が自分の意思で間違えた方向へ向かおうとすることを
恐れてしまっているので その恐れを手放すように
ということを示されました

これを示された時に 要するに私は
自分の意思で神様に背を向けて欲を掴もうとする人が
悔い改めて神様の元に帰って来れるということを
信じていないのだと気が付きました

しかしそれは 私の感情というよりは
完璧主義の背景にある恐れであると感じるので
(赦しがないという恐れは敵のものです)

自分がそれに打ち勝てていないから
りゅうくんの背後にいる完璧主義の霊を
追い出せないのだと気が付きました

また

痛い目に遭うだろうことがわかっていたとしても
人の自由意思を尊重しなければならない

というのが神様の啓示の締め括りで
それは頭で理解していても難しいなぁと
感じはしたのですが その直後に
新約聖書の手紙の多くは その様な人たちに
悔い改めを促す内容ばかりだなと思いました

悪い方へ行くのを恐れてルールや圧力で
がんじがらめにすることは神様の御心ではなく

尚且つ 間違えた方へ行った人たちに教えないことも
神様の御心ではありません

神様は人の前に 祝福と呪いを置かれますが
祝福を取って欲しいと思われています

神様は 祝福だけをくださらないのです
何故なら祝福だけが目の前にあるのなら
自由意思という大切な尊厳が損なわれるからです

しかし呪いを取ろうとしている人に
神様が 使者を送るときがあります
それは呪いだよと教えてくださるためにですが
呪いを取らずに祝福を取れと強要するためではないのです

知らせるべき義務がある人が知らせなかった場合は
知らせるべき義務がある人が責任を負いますが
知らせた上で神様の道に戻ってこないなら
戻って来ない人の責任になります

知らせるべき義務がある人には
道を正す義務はないのですが
しかし 知らせるべきことをひとつも漏らさず
きちんと伝える義務はあり そこに
自分の思いで言葉を加えても削ってもいけません

まず 知らせるからには正さなければと思う
思い違いを悔い改める必要があると感じました
どんなに痛い目に遭って欲しくないと思っても
自由意思を尊重しなければならないのです

神様が人に自由意思を与えてそれを尊重されるのだから
私たちも人の自由意思を尊重しなければいけません

ましてや神様からことばを預かる立場にいるなら
神様の言葉に自分の思いを足してはいけません

もし神様の言葉を伝えるときに自分の思いを足して
伝えるならそれも罪となります

自分の思いを言ってはいけないということではなく
神様はこう言っている ということと私はこう思うは
明確に分けて言わなければいけないということで
パウロも新約聖書の中で これは神様からのことではなく
私はこう考える という表現をしています

人が悪に向かっていたとしても
伝える人は神様の上にかたく立たなければならず
悪を犯させないように強要して自分まで
罪を犯すことがないようにしなければならない

これは 人の罪の問題を気にする前に
自分の問題をクリアしなければならないということです

りゅうくんが間違えた時に巻き込まれるのが嫌で
事前に何とか正せないものかと思っていましたが
むしろその思いが間違えの元だったのです

なにが祝福で何が呪いかを教えること

それ以上に私に出来ることはないとわかると
それはそれで肩の荷がおりました

勿論 呪いを選ばれたら困るのですが
何が呪いであるか 或いは何が祝福であるかという
偏った情報だけを伝えておきながら
呪いを選んだぞやばい!と恐れたり
呪いを選んだから締め出すというのは大間違えで

新約聖書の手紙のように 何が祝福で何が呪いかを
丁寧に教えて励ます必要があるのだと思いました

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