ミスリードに対する怒りを手放す

昨日のことともうひとつ 神様から
親やリーダーにミスリードされたことに対して
赦すようにという促しを受けました

この思いは ミスリードをしないために
神様の視点が欲しいと強く願うきっかけに
なったものでもありますが
(反面教師ですね)

神様は 過去にミスリードをされたために
被った被害についても全て祝福に変えると
示してくださったのです

しかし その祝福を受け取るために まずは
怒りを手放しなさいと示されました

正直 それを祝福に変えて貰おうとは
全く思っていなかったのですが しかし神様は
本当に全てを恵みに変えようとされているのです

自分の人生を神様の恵みと祝福だけで
満たしたいとは思っていましたし
その様には祈っていましたが

自分の考え方や受け取り方を変えるとかいう
小手先のことではなく そのままを全て
本物の祝福へと変えてくださるのだと感じました

反面教師というのは 恵みを拒絶する
考え方だなぁとは以前思ったことがありますが
実際 嫌なものを模範としているわけだから
そこには愛(神様のご性質)はありません

むしろ嫌なものに傷付けられたと感じたときに
哀しむべきを悲しみ 怒るべきを怒り
しかしそこで罪を犯すことなく
叫ぶべきを神様に向かって叫ぶことの方が
余程健全で それがみこころなのだと感じます

そもそも自分がされて嫌なことは 健全な人であれば
別に意識しなくてもやらないものなのです
しかし 怒りを軸にしていると自分のことばかりか
他人にも意見し始めます(コントロールですね)

怒りや恐れは敵の足掛かりになるので
そこから破壊が生じるのです

ですが 神様がどうご覧になっているかにより
管理するならそこには愛しかありません

愛には権威があり 人を建て上げます

例え誰かが間違えたことをしていたとしても
恐れや怒りを根拠に人を説き伏せようとするなら
それにより破壊がもたらされるのです

話を戻しますが

神様は その様にして破壊されたことに対して
赦すようにと示されました

人が恐れや怒りを根拠に私を
コントロールしようとする発言をしたために
破壊がもたらされた時 私自身はそれを
反面教師にするということは出来ませんでした

何故なら反面教師の原動力は
相手に対する怒りだからであり
私はそれを土台に何かをすることに対して
クリスチャンになる前にもう辟易していたからです

しかし 言われてみれば壊されたことに対する
憤りは確かにあるわけで
私はそれを 自分の問題として神様に
このぶつけどころのない怒りを
どうすればいいのですかと叫んでいたのです

答えはシンプルで 赦しなさい だったのです

どうやら私は人に怒りを向けないようにと
自分が相手に対して怒っていることから
目を背けてしまう癖があるようなので
きちんと怒っていることを自覚出来るように
ならないとなぁと思いましたが

しかし 自分の失敗ばかりか人から被った被害に対してまで
神様が恵みに変えてくださるというのは
それは本当にとてつもないことです

神様は 私自身の罪だけではなく
全ての人の罪を背負われた ということを
別の角度から理解した瞬間でした

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