神様の義

私(たち)が義に生きる と言うとき
当然 神様の義に生きるという意味ですが

では神様の義とは何か?と考える時に
もし律法を守ることが義と考えるなら
それは広義で間違えていることになることが
聖書から読み解くことが出来ます

神様の義に生きるというのは
自分や自分が信じるものを義とせず
神様を義とする ということだと
私自身は解釈しています

聖書において 神様が義とした人の
例えとしてこの様な記述があります

ルカの福音書18章9-14節です

自分を義人だと自任し、他の人々を
見下している者たちに対しては、
イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、
姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでは
ないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、
その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、
目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて
家に帰りました。パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるからです。」

人の思う義を為しているだけの者は 例えそれが
聖書に書かれていることを守っていても
義とは認められず

逆に罪人と呼ばれるような人や
聖書に書かれていることを守れていない人でも
その様な自分を悔いて 神様に憐れみを乞う人を
神様は義と認められているのです

どんなに紙面通りに正しいことをしていても
自分の行いを誇る人を 神様は義とはご覧になりませんし
そういう人が 神様の素晴らしさを見て妬んだり
神様に対して不平不満を言うことが
聖書からたくさん読むことが出来ます

(要するに 書かれた全ての正しいことを出来ておらず
自分が良いと思ったことだけをしている状態です)

神様の心を知り 神様のなさることを喜び
神様が 誰かわたしに協力してくれる者はいないかと
仰る時に 私がやります!と手を上げるものを
神様は喜んでくださいます

勿論 やります!と言いながらいざとなると
やっぱりやめておきますと逃げるようでは義とされず
やってくれないかと言われた時は断ったとしても
後で悪いと思って行動するものを神様は義とされます

神様は 私たちに出来ないようなことは頼みません
また やると言ったのに出来なくても罰したり
失望したりする神様ではありませんが
その人の心を 本人が気付かない程深いところまで
しっかりとご覧になる方であると感じます

神様の義というのは 出来る出来ないというよりは
神様との心による交流の中で育まれるものであって
聖書通りに生きるとかいうことではなく
神様の呼び掛けに応答する姿勢だと感じます

そして 逆を言うなら罪に支配される者というのは
神様に応答をしたくてもすることが出来ず
素直に応答したいのに自分勝手をしてしまうといった
状態のことを指すのかなぁ なんて思うことがありました

ですがもしその様な状態にある人が
イエスさまに叫び 助けを求めるなら
間違えなく 神様は憐れみの手をもって
泥沼から救ってくれるのだと思いました

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人