ただ神様だけを見る

今 QT箇所はイエスさまがユダヤ人に対して
ご自身がメシアであることがわからないのは
あなたたちが私に属するものではないからだ
と言われたため ユダヤ人の間に分裂が起きる
というところなのですが

イエスさまはこの時 言うなればわざと
ユダヤ人たちに挑発的な表現をされており
ご自身が死ぬことを選んでいることまで
明確に語られています

以前はこれがどういうことなのか
全く理解出来ませんでした

今になってわかることは
イエスさまは 神様がご自身に与えられた人を
救うためだけに来て死なれたのであり
不特定多数の全人類のため という
博愛主義的なことは言っていないということ

しかし イエスさまが背負われたのは
敵対するものを含めた全人類の罪だということです

だから イエスさまが自分自身の罪のために
死んでよみがえられたことを信じるなら
神の子として貰えますが

イエスさまの弟子になるとするなら
全ての人を 罪赦された人として見て
神様の御心をすることは勿論大事なのですけど

しかし 神様がやりなさいと言われたこと以外に
気を向けるべきではないのだなと感じました

QTを通して語られたことは
この様なものでした

愛する澄子 死人は死人に任せておけばいい
という表現が他の箇所にありましたが
あなたは自分がやるべきこと 父の心に
しっかりと目を合わせて 周りを見る必要はありません

監督としてその様なことをやるときも
勿論あるでしょうが 監督するべきではないものに
自分の心や時間を割く必要はないのです

父だけに心を向けなさい
父はあなたに為して欲しいこと 思いを与えられます
語りかけという外から来るものは敵です

あれをしなければいけない
これをしなければいけないといった
人を偽善者に仕立てあげるような嘘は
大抵 その裏に恐れの感情があり
恐れているものは神様ではなく人です

人を恐れるから偽善者であろうとするのは
神だけを恐れ 雄々しくあれという
聖書の励ましとは遠く離れたこの世のものです

その様にして人の犠牲となったとしても
悪魔が喜ぶだけで 犬死にとなります

しかし神様のために己を捨てるなら
何倍にもしてくださるのです

私が20年近くやってきた仕事を神様は
敵に奪われたものだったと言いますが
それは本当に間違えないことであり
私は私を切り売りしてお金を得てきたという
自覚がありましたし そうすることでしか
稼ぐことは出来ないと思っていたのです

そんなことをしてまで生きなければいけないことは
本当に嫌でしたが しかし私は神様のために
まだなにもしていないという思いが強くあり
その思いの故に生きてきたのです

クリスチャンになった頃 私は
神様を知っていると思っていました
神様だけを求めて 神様に導かれて
ここまで来たと思っていたからです

ですがそれは 全く間違えていて
神様は確かに私を選び 私をご存じで
必要な時には思いを与えてくださり
私を助け守ってくださっていましたが

しかし私自身は神様のことを
何も知らなかったのです

私の人生は 人のものではなく神様のものだ
ということは知っていたし それが私の望みでしたが
神様は 自分自身を大切にしなさいと仰るので
私は自分を大切にすることを選ぶのです

神様のために命を捨てたものは
何倍にも命を得る ということを
身をもって体験していると思います

偽善 博愛 そういったものは全て
人を神様から離れさせるための嘘なんだな
と 思う今日この頃なのでした

多分ずっと語られ続けていることなのですが
それがようやく こういうことかーと
腑に落ちてきたと感じます

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