(祈りに対する)新しい学び

昨日のチェ・アン牧師からの学びに引き続き
今日はロバート・ヘンダーソン牧師からの
学びについて書きたいと思います
(詳細は折りを見てまた後日まとめます)

ロバート・ヘンダーソン牧師というのは
天の法廷という祈りのビジョンで有名な
祈りに召された牧師です

チェ・アン牧師の御国のお話同様
ロバート・ヘンダーソン牧師の祈りのお話も
私にとって新しい学びがたくさんありました

上記の動画 天の法廷での祈りについては
聞いたことがあり その時も
「今 この祈りの学びが必要だった!」
というタイミングで知ったのですが

今回も同じ様に 今日 今 この学びを聞くことが
神様の道であり 今こそが天の時だと確信する様な
私にとって学びという意味を超えた時間となりました

というのも クリスチャンになってから今まで
神様から祈りなさいと示されて祈ったことが
どういう意味であったのかを理解すると共に

私に欠けているものが何であったのかを
明確に知り それを補って貰うことが出来たからです

その中のひとつが 神様の友として祈る祈りです

つい先日ある人物について
その人のことをどんなに祈っても
わたしは耳を貸さないが
あなたのこととして祈るなら聞くと
りゅうくん経由で示された という話を書きましたが

「(直接私に対して示されたのではなく)
りゅうくん経由で示された理由」の中に私の未熟さと
神様が私に求めなさいと言っていたことの
本当の意味の一片が隠されていたとわかったのです

それは 私にとっての神様の立ち位置です

私にとって神様は「とっても凄いパパ」です
そして その「凄い」の中には
創造主として凄い 愛なる方としての凄い
誠実な方としての凄い 謙遜な方としての凄い
戦いの神としての凄い 癒し主としての凄い 等々
様々な「凄い」があるわけですが

それらの凄いというのは私が知っているものなので
ビジョンでも見るし 人にわかりやすく
例えて伝えることも出来ます

しかし 今回語られた天の有り方について私は
耳にはしていたけれど全く無知であり また
無知であるにも関わらず知ることを
求めていなかったものでした

これは5/2に書いた歴史についても同じでしたが
歴史については全く興味がなく
私はそこ(歴史を紐解くこと)に召されているのではなく
神様が この件について祈って欲しいというもののひとつが
歴史の中のこの部分 という理解で十分だと思いました

イエスさまですら ご自身がユダヤ人に召されていて
異邦人がイエスさまに救いを求めた時に
子に与えるべきものを子犬に与えてはならないと
仰ったぐらいなのですから

自分が召されてもいないのに好奇心や別の心で
何かを始めるには 権威者の下に行かなければなりません

歴史の場合はその血筋であるとか ルーツの上に生きる人に
その召しがあるので その人の下に整列する必要があります
部外者が 霊的な権威がない中で学ぼうとすれば
すぐに敵にやられてしまうからです

そして 誰かの下に整列するということは
その召しに自分を捧げるということを意味します

自分が誰の下に整列するかというのはとても大切です
本来整列するべきではない間違えたところに行けば
自分が整列するべき場所において必要な人物が
不在になってしまいます

また 間違えた場所では油注ぎの故に
ある程度の実を見ることは出来ますが
その場を離れた途端に全てがなくなります

その上 本当に自分がやるべき場所に行った時に
そこで学んだことが余計な枝葉として
刈り込まれることさえあるのです

最も最悪なケースは 敵が与えた思いにより得たものは
本当に大切なものに破壊をもたらすということです

聖霊に聞き従うなら絶対にそこに行くことはありませんが
不安や恐れ 嫉妬 劣等感などを動機にして
聖霊が止めるのを振り切ってしまえば
クリスチャンであっても敵の使者になってしまうのです

自分の欲求の根 霊的背景が何であるかを
探ることは本当に大切なことだと思います

自分の不安や恐れ 嫉妬 劣等感
その他 満たされない心を
神様ではなく 他のものに求めてしまうなら
自分の時間を無駄に使うばかりか
そのコミュニティに敵の足掛かりを
持ち込むことにもなりますから
その根は見つけ出され 悔い改めへと
導かれる必要があります

何を誰から学ぶかということも勿論大切ですが
どの様な心で学ぶかによって
それが神様から来たものか
悪魔から来たものかが決まるのです

聖霊様は 悪い心で求めるものは絶対に止められますから
聖霊様に聞き従うなら絶対にその様な道には入れません

しかしもし 行くべき道に間違えた思いで
入っていくなら 悔い改めへと導かれます

思いも神様が与えてくださるので
「みこころなら思いを与えてください
そうでないなら忘れます」と祈って手放し
その結果与えられるものに向かって動けばいいのです

もし不安や恐れ 嫉妬 劣等感
その他満たされない心の故に求めて祈るなら
求めたことではなく それらの心を癒す方向へと
自分が思ったのとは違っていてもきちんと動き始めます

ですから神様だけに求めて思いを委ね
全てを手放すことはどこでも最高の答えです

話を戻しますが

ユダヤ人とキリスト教の歴史については
これは私が召された場所の解放に関する
ヒントであると感じたので
その事に対して祈ることは神様からの
恵みであると感じました

聖書にある通り イスラエルの為に祈るものは
神様から恵みを得るのです

しかし今回の件は これこそが私の召された場所で
もっと神様に求めなければいけない というより
神様がもっと求めなさいと仰っていたのは
この事もだったのかも?とすら思いました

友として祈る祈りについて 何故私が
神様から直接ではなくりゅうくん経由で
それを受け取ったのか ということを考えた時に
その事に気が付きました

実はあの時 私は「あなたがその人のことを
どんなに祈ってもわたしは聞かない」と
仰っていることしかわからなかったのです

しかし 神様が何かそれ以外のことを示そうと
しておられるのにそれが何かわからなかったので
りゅうくんに 神様が何て言っているか
聞いてくれる?とお願いしたのです

その結果「あなたのこととして祈るなら聞く」という
物凄い重要なことを聞くことが出来たわけですが

あなたのこととして祈るなら聞くよ と 折角
神様が言ってくださっているのに
スルーしてしまい聞くことが出来なかったことが
私が次に求めるべきことなのだと感じたのです

簡単に言えば 神様との関係性を
広げる(増やす)時だということです

上述した私にとっての「凄い」の中に
凄い友達としての神様 という概念はありませんし
そもそもで父親を友とするという概念はありません

ですがよく考えてみると
父親と健全な関係を築いていくなら
もしかしたら成長するにつれて父親と
友のような関係になっていくのかもしれません

私は父と そもそもで親子の関係を築けなかったので
(父は親として生きる気がない人だったので
求めても得られなかったというのが正しいのですが)
その様な流れに対して全く無頓着でした

神様と出逢い まるで乳飲み子にミルクを
飲ませるかのように育ててもらい やっと
お父さんと自分の関係が築けたわけですが
神様は次のステージは「友としてのお父さん」を
求めるように促されているのかなと思いました

ロバート・ヘンダーソン牧師のお話としては
もうひとつ 裁判員として法廷で祈ることも
聖書を用いて詳細に解説がありましたが

これについては その権威を持つ人が
打ち破りの祈りをしてくれたことが
何より素晴らしいことでした

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