岩波訳で感じたイエスさまの思い

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今日は りゅうくんの夜勤が少しだけ早めで
ほぼ入れ違いだったので りゅうくんを送り出してから
ジムに行くか家で本を読むかと考えたのですが

先日 少し長くフィットネスバイクをやりすぎて
股関節に違和感があったので 大人しく本を読むことにしました

先日 新共同訳で旧約聖書を読み終えて
聖霊様に 次は何を読みましょうかと尋ねると
岩波訳のヨハネ文章で神様の愛を受け取るようにと
示されたことを書きましたが

少し読んでみると まるでその時の街のざわめきまで
聞こえてきそうなほどにリアルな描写 という印象でした
(聖霊様がそれを感じさせてくれているのだと思いますが)

例えば ピラトがイエスさまの罪状に「ユダヤの王」と
書いた時に ユダヤ人たちが取り下げてくれと言うと
「わたしが書いたものは書いたままにしておけ」と答えますが
この聖書には注釈に「つべこべいうなというニュアンス」
ということが書いてある そんな感じです

また 文法的に複数の意味で取れるような箇所にも
きちんと注釈があり 訳が変わると印象が変わるのです

言語に忠実に訳するというのは
こういうことなんだなぁと思いました

その様にして とてもうきうきしながら読み進めると
結婚指輪を作るときに示されて 指輪に刻んだ
ヨハネの福音書17章24節に到達しました

新改訳では

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものを
わたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。
あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたために
わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

新共同訳では

父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。
それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、
彼らに見せるためです。

そして岩波訳では

父よ、私に与えて下さっている人々が、私のいるところに、
あの人々も私と共にいてほしいと思います。
あなたが世の礎が置かれる以前に私を愛し、そのゆえに
私に与えて下さっている、この私の栄光を彼らが看るために。

という表現になっています

共に(いっしょに)おらせてください という表現と
共にいてほしいと思います という表現に大きな違いがあります

新改訳や新共同訳ではどちらかというと
「イエスさまが私たちに栄光を見せるために神様にお願いをしている」
という 後半部分が中心の印象を受けていたのですが

岩波訳を読んだ時に感じたのはそこではなく
「イエスさまが私たちと一緒にいたいと思って神様にお願いをしている」
という印象でこのみことばを受けました

霊的な法則を考えるなら 人には自由意志があるので
「おらせてください」という祈りにはならないはずなのです
それは人の自由意志を無視した祈りだからです

例え神様がイエスさまのために人を選び出したとしても
人がそれを受け入れない可能性があることを
イエスさまはそのことをよくわかっていて

私たちがイエスさまと共に神様の右の座にいて欲しいと思って
この祈りを祈っていらっしゃるのだと感じたのです

私たちをどうして欲しいと祈っているのではなく
ご自身がどうして欲しいと思っているのかを伝えているのです

この理解で りゅうくんとの結婚が 私たちをイエスさまの元へ
引き寄せるための結婚だったのだということ
それほどに私たちのことを恋い慕ってくださって
いるのだということを本当に強く感じました

最初に神様が私たちのことを愛してくださるから
私たちは神様を愛する とはよく言うことです

しかし どちらかというとイエスさまは
神様の栄光のためになされたという印象がありました

ですがイエスさまがどれ程に まだ見ぬ神様からの報酬である
私たちのことを楽しみにしておられたのかということを
本当に 深く理解することが出来ました

いつも 神様に対して一緒にいてくださってありがとう!
と 感謝を伝えていましたが そうではなく

一緒にいたいと思って招いてくれてありがとう!

なんだなぁ と 本当に涙が出る思いでした

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