善悪の判断

朝 夜勤から帰って来たりゅうくんと
神様の言うことではなく敵の嘘を
信じていたことを悔い改める祈りと

敵と結んでしまっていた契約を破棄して
敵を追い出す命令をしました

すると神様が 自分で善悪の判断(ジャッジ)を
しようとすると 敵に騙されてしまうのだと
教えて下さいました

善悪の判断 ジャッジ 裁きというのは
神様に善悪の判断を仰がずに自分でやると
間違える可能性があるわけですが

それが間違えている時 敵に
足がかりを与えてしまいます

霊的権威は 嘘を信じると
その嘘をついたものに取られてしまうので
それが原因で 自分の人生に悪魔を招き
病やトラブルが起きてしまうのです

病やトラブルは 決して神様が
人の訓練のために起こしているのではありません
この霊的法則により 人が勝手に
敵を自らの人生に招いているだけです

ここ最近のことを思うとき

りゅうくんが神様に反抗して敵を招いたとしても
私がその敵にやられて痛手を負うなら
その原因は私の方にあります

もし何もなければ 影響を受けることなく
ただ縛り上げて出ていけ で終わるはずだからです

なので 自分の人生の中にどんな過ちがあるのか
神様に求めて示して貰えるように祈りました

すると ふと「親愛なるイエスさま」という言葉が
口を突いて出てきました

その時にあれ?と思ったのですが
その言葉を言うことに気恥ずかしさを感じたのです

気恥ずかしい ということは
イエスさまに親愛なる と言う資格が
自分にはないという罪意識の現れであり
イエスさまの愛と自分の心のチューニングが
合っていないことを感じました

なので すぐに自分の心を
「親愛なるイエスさま」という言葉に寄せました

すると その言葉に相応しくないものが
自分の内に2つ 思い至ったのです

ひとつは 私たちが受けた神様からの示しを
否定的なものとして受け取った人に対する反感
そしてもうひとつは 神様がくださろうとする
恵みの基にいる人たちに対する反感です

実は過去にも全く同じような出来事がありました
それはりゅうくんとの結婚の時のことです

あの時と同じことが起きていると気付いたので
そこから私が何を学んだかを思い出して
今起きていることに適用した時に 自分の心の態度が
間違えていることに具体的に理解できました

同時に 何故間違えたのかにも心当たりました
私自身が新しい恵みに対して
それを受けとることが悪いことであるように
敵に植え付けられた嘘をまだ完全には
捨てきれていないことが原因でした

だから 否定的に言われたときに
必要以上に反感を持ってしまい
恵みの基にいる人たちに対しても
反感を持ってしまっていたのです

そして 自分自身が敵にやられているから
りゅうくんの招き入れたものに
私自身もやられてしまったのです

イエスさまは当然ながら
私たちの受ける恵みを否定的に言った人のことも
また 私が否定的に思った恵みの基にいる
人たちのことも愛しておられます

そのイエスさまの愛と自分の心が
ずれていることは大きな問題です

悔い改めて 感謝するべきものには感謝を
祈るべきものには祈りを捧げると
大きな打ち破りがあったことを感じ
それは実際に目に見える兆候としても
見ることが出来ました

また夕方には会社で 小さながっかりすることと
物凄く大きながっかりする出来事がありました

しかしそれは古いものの終わりと 次の新しいことを
見据える時だという印であるとも感じました

仕事が終わってからりゅうくんと合流し話をすると
りゅうくんも物凄くがっかりしてしまい
その様子は 二人で凹んでいたら浮上出来ないぞと
焦るほどで すぐに神様に助けを求めよう!と祈ると
すぐに ある姉妹を通して励ましが与えられました

その励ましの中でも同じように
古いものの終わりと新しい始まりを感じました

半年ぐらい前から4月 と示されていたので
本当に その時がもう近いのだと感じます

それが何であるのか本当に楽しみです♥️

—-

以下は 長文ですが神様が仰るところの
善悪について書いた文章です

善悪の判断をジャッジをしてはいけないということが
具体的にどういうことか ということの詳細です

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神様がおっしゃる悪の定義は
人の世でいう善悪とは違います

神様の考え 神様の仰ることは全き善であるので
神様の考えや 仰ることを否定するものは
善の反対なので悪になります ここに中間はありません

幸いなことに この世の全てを造られ
私たちを創造された神様は とても善い方で
そのご性質は愛 喜び 平安 寛容 親切
善意 誠実 柔和 自制といったもので表されます
(ガラテヤ書5章22-23節)

それに加えて誠実であり 真に満ちておられ
怒るに遅く 憐れみ深いという
本当に賛美されるに相応しい方です

そして 人はその神様に似せて造られました

神様は人を 善いもので満たすつもりで
善いものだけを与えてくださいましたが
人には自由意思が与えられました

それは 神様が人をロボットのようなものとして
造られたのではなく 意思をもって
善いものを選ぶ者として造られたからです

神様は 人にただ善いものを無条件に与えるのではなく
人が自らの意思で善いものを選び取ることを望まれました

もし善いものしかなく 悪いものがなければ
善いものしか選ぶことが出来ず
そういう状態では自由はありません

ですから 善悪を知る実は彼らの前に
「食べたら死ぬもの」として置かれました

ところが蛇は 神様は嘘をついている
その実を食べてもあなたたちは死なない
それどころか神のようになれると言いました

神様は真実な方で 決して嘘はつけません
しかし蛇はその様に言ったのです

ですから 蛇の言葉を信じるということは
神様を嘘つきに定める悪に同意することになる
ということがポイントになります

嘘に同意すると悪人の仲間になるのです
尚且つ 嘘をついたものに権威が渡ります

それは金融詐欺に遭ったときに 嘘を信じたら
お金を取られてしまうのと同じです

エヴァは この実を食べたら
神様のようになれるという嘘が
大変魅力的に感じてしまいました

その結果「食べても死なない」という
蛇の嘘を信じる方が良い それを食べることは
善いことだという判断(ジャッジ)をしてしまい

神様は嘘をついたということに同意をして
悪を行ってしまったのです

神様の御言葉を否定して自分の思いを取る時には
神様を嘘つきに定める覚悟を決めて
否定しなければいけないのです

しかしでは神様は嘘を言うでしょうか?
当然ながら 決して言うことはありません

神様は審判の神でもありますから
罪を犯したアダムとエヴァに その
判決を下さなければなりませんでした

しかし 神様は二人を憐れみ
動物(羊)をほふり その皮で衣を造り
二人を覆われて送り出しました

罪の報酬は死であるという事実を
覆すわけにはいきませんから
神様は 人が罪を犯された時に
心を痛めて送り出されたのです

また その時のアダムとエヴァの心も
推し量ることが出来ないほどのものだったでしょう

いつも共にいて 全てを与えてくださり
これに名前をつけなさいと言ってくださった方と
永遠に生きる道を失ってしまったのです

全く善である神様のことを嘘つきにしてしまったのに
皮で服を造って着せた上で送り出されたのです

神様が愛を持って私たちに触れてくださる時に
自分の中に罪があるなら 恥じらう思いが出ます

しかし罪意識がない時には 愛をもって触れられ
親切にされる時に その触れてくれる方を
慕わしく思い 気にかけて貰えると喜びに満ちます

だから神様は 救いとして人の中から
罪を取り去ることをご計画されたのです

罪を取り去らなければ 人は神様に
近付くことが出来ず 神様のイメージする
神様に似た者になることが出来ません

どうして近付けない方に似ることが出来るでしょう
だからまずは罪を取り去らなければいけませんでした

それから親切で豊かな御恵みと慈愛に触れると
平安を感じ 全てを許せるような心となり
そして自分自身がその方に相応しいものに
なりたいという思いが与えられます

素晴らしい人格者に親切にして貰ったときに
その人自身を敬愛すると共に 自分もこの人のように
なりたいと思う その様な慕わしい感覚であり
恐らく 子どもが親を尊敬して慕うときも
同じような感覚なのではないかと思います

神様に出逢うことはゴールではなく始まりなのです

ところが自分を神のように思う存在は
その様な素晴らしい存在に出逢ったときに嫉妬します

パリサイ人たちは 自分たちこそ
完全で正しいと思い込んでいたからこそ
イエスさまに嫉妬し 死刑へと追いやりました

ですからイエスさまは彼等に対して
あなたたちは神の子ではなく悪魔の子だ
子どもは父親の真似をすると仰ったのです

パリサイ人たちは自分たちを正しいと主張しますが
もし本当に正しいなら 何の罪もない人を
死刑にすることは決してありません

ですが 悪者がいるから神様のご計画である
完全に罪のないイエスさまが
全ての人の身代わりとなって死ぬという
出来事が完了したのです

ぺテロは イエスさまが十字架の預言をすると
そんなことが起きるはずはなく言うべきでないと
イエスさまを嗜めました

それに対してイエスさまは
下がれサタン と仰っています

確かに人の目から見たら 無実の人が
悪者の嫉妬により殺されることは
あってはならないことです

しかし 神様のそのご計画は善いことでした

神様は善いとしたことをぺテロは
悪いことのように言ったので
下がれサタン と言われてしまったのです

人が 人の思いで善悪を判断することは出来ません
絶対的に善である方が善しとされるかされないかは
神様に尋ねてみなければわからないのです

そしてその神様が わたしはあなたの罪を赦す
イエスのあがないと復活を信じる者の罪を
わたしは忘れると定めてくださいました

ですから 私たちがイエスさまがあがなった人を
罪に定めるなら 神様は嘘をついていると言って
神様に敵対する者と同じになってしまいます

それは他人のことだけではなく
自分自身のことだって同じです

姦淫の現場で捕まった女は
イエスさまの赦しを受け 罪人ではなくなり
もう二度と罪をおかしてはいけませんと
言葉を頂いた時に 罪を犯さないものとされました

イエスさまの元を離れた時に
その女はもう罪人ではなかったのです

同様に 私たちはもう罪人ではありません
未熟な故に間違えることはありますし
失敗することもあり その結果は
刈り取らなければならないこともあります

しかし 神様を知り 神様を体験して
神様に近付きたいと願い求める者であり
そのような者の願いを神様は決して
捨て置かれることはありません

何故ならそれこそが 神様の願いであり
人にある神様のご計画だからです

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