希望による平安

昨日は色々なことが完了した日でしたが
イエスさまは完了した日から3日目の朝に
甦られたので なんとなくですが
私も今日は1日死んでおこう と思いました

特に何をしようと決めたわけではありませんが
(スマホを車内に忘れたり等々したため)
ネットで普段やっている情報収集などを
期せずして一切やらない日となりました

QTも イエスさまが亡くなられた時を
描写したところでしたが イエスさまは
ゲツセマネで既にご自身の苦しみについては
飲み込み終わっており 十字架の道では
ご自身が受ける苦しみの故に 多くの
神様がイエスさまのために選ばれた者たちが
救われることを思い 満足されていた
ということが旧約聖書からもわかります

QTを通して語られたことは
私が希望として抱いている思いは
その信仰の故に叶いますよ という
励ましの言葉でした

今回 痛みを伴って甘んじたことは
神様に語られた故のことでしたから
全て 叶うとは思っていましたが
QTを通して 更にその事を念押しされ
益々揺るぎない確信となりました

イエスさまが罪の杯を飲まれてから
甦り時まで イエスさまは罪の故に
神様とは切り離されていました

ですが きっと黄泉の国でイエスさまは
イエスさまが産まれるときまで
待つことを許されていた魂たちに
福音を伝えられていたのだろうなぁと
勝手に思っているのですが

希望があるから 離れている時でも
イエスさまならこんな時に
どうするだろう と思いながら
自分のやるべきことを出来るような
自分でありたいな と思いました

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