神様の守りと自己保身は両立しない

先日 羊の絵を描いた時に
「あなたは何かになりたいと言ったが
しかし神様により既にそれであるので
自分で何か努力する必要はない」

というニュアンスの言葉を添えました

これは エヴァが蛇に騙された手口に由来するものです

エヴァは神様に似せて作られていたのに
「この実を食べたら神のようになれる」という
誘惑の言葉に負けて食べてはいけないと言われていた
実を食べてしまったからです

以前からよくあることだったのですが
多分こうだと思う と思いながら
自分の思いを信じることが出来なくて
余計なことをしてしまって失敗するということが
本当に とても多くありました

なので私は余計なことを考えずに
直感に従うことが出来るように と自分自身を
律することが出来るように努力をしてきて

尚且つ 自分でそのように感情のコントロールが
出来ない領域については避けるという選択をしてきました

ですがクリスチャンになり そのように
自分自身でコントロールをしようとするところを
全て神様に砕かれましたし

自分が避けていた領域に向き合うようにと
神様から促されることを強く感じました

敵に負けて負けっぱなしでいることを
神様は良しとされませんし
人の弱さに神様が栄光を現すためには
弱い領域に神様と一緒に行くことが必要なのです

また 人の目から見て罪であることに対して
神様が全く違う目線をくださるということが
本当に 山のようにありました

これは聖書で言うなら ダビデが
祭司しか食べることが出来ないとされているパンを
部下たちに配り食べさせたことについて
神様は罪に定めなかったことを思い起こさせます

ダビデが部下たちのために祭司のパンを取って与えた時
ダビデは罪を犯してしまったと自分を責めたりしませんでした

それは神様に 神様の愛の目線を示されており
それをやることが神様の御心にかなっていると
知っていたからだと思います

同じように 人からそれは本当に神様からなの?と
言われても聖霊様に満たされている間
神様のことだけを信じてみ恵みを掴むということが
何度もありました

考えてみると 若い頃に取りたくないと思って
避けたリスクを全て 神様から取るようにと
促されていることがわかります

それにより 自分の力ではなく神様の力で
得させて頂けたのだということがわかります

若い頃に 私が掴まなかったものの中で
神様から出たものがたくさんあったのだろうと思いましたが
しかし 神様の守りがなくそれを取りに行くことは
私には絶対に出来なかったと言い切ることが出来ます

守られているということがどれほどに
大きな事であるか クリスチャンになる前と今とで
どれだけ違うかを 最近本当に実感しています

自分が既に備えを受け取ったものであって
十分に守られているので これ以上に
守ろうとしたり その守りを疑ったりする必要はない
ということをとても深く感じました

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