良い管理者になるはじめ

今日はQTの中で 悪魔を追い出した時に
ただ自分の名が御国の書に書かれていることを
喜びなさい という教えについて語られました

勿論 悪魔を追い出すことで自分が偉くなったと
勘違いすることがないようにという
意味もあるのでしょうが

今日語られたことは 悪魔を追い出すことは
居るべきではない不法に居座るものに対して
出ていきなさいと言って それが出ていくのは
当然のことだから誇ることは何もなく

むしろ それがそこに居座ることを
ゆるすことの方に問題があるのだから
問題が無くなるだけなのに誇らないように
というニュアンスでした

例えばですが 家の中に泥棒がやってきて
なんでもどうぞと差し出した上に
泥棒のアジトとして場所を提供していたら
警察がやって来たときに共犯として
捕まってしまうでしょう

そういう状態にあった者の罪があがなわれて
泥棒に対する命令権利を預かっただけなのです

泥棒は 居直ったり脅したりしてきますが
後ろには絶対的な権威を持つ方がいるので
恐れることなく出ていけと命令しなさいと
仰有るのを その通りにしているだけなのに
自分の何を誇ることがあるでしょう

また泥棒は これはもうおしまいだと思うと
今度はあれこれ金品や良い話を持ち込んで
これをあげるから追い出さないでくださいと
誘惑をしてきます

それは勿論嘘なので手には入りませんし
もし誘惑に負けて 折角頂いた救いの約束を
蔑ろにしてしまったらどうなるでしょうか

私たちの日々の霊的な訓練というのは
この様なものであると神様は示された上で

私たちは敵にやられて壊された領域を
神様により修復し やり直すことが目的であり
敵が入ってこないように守るのは
ゴールではなく始まりであると示されました

敵を追い出してやれやれと息をついて
また敵と闘う ということではないわけです

私たちは自分達の領域にしっかりと垣根を持ち
管理をする者とならなければならないのです

神様から頂いた自由は 大袈裟ではなく
誘惑に興じることも含めて自由に使えます
神様は 人にそれをゆるされていることが
放蕩息子の喩えから読み取れます

しかし 私は神様の栄光を現すために
その自由を使う人生を歩みたいですし
神様以外に本当の意味で 私の心を
満たすことが出来る方はいません

敵の嘘に付き合っている暇はないのです

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