感情をねじ曲げる癖からの解放

昨日 りゅうくんを通して受け取れた
神様の御恵みというのは 簡単に言えば

自分の悟りにより赦すの赦さないの言ってるうちは
神様の御恵みを受け取れない ということを
裏付けるものでもありました

こちらに全く非がないのに嫌なことをされた時に
忍耐して赦します というようなことを言っても
真の意味では全く赦せていない ということは
他の人のそれを見ていて常々感じていました

何故なら 赦しますと言いながら
自分を高いところに置いて
「赦してやってる私を誇る」感じが
物凄いしていたからです

自分を違うところに置いてしまい
本来感じるべき感情を避けることも
神様からの恵みから自分自身を
遠ざけてしまうのだなぁと思いましたが

私が求めている赦す心はそういうものではなく
神様から来る完全な解放でした

神様が赦してくださるから人を赦せるのです

神様から赦されている ということを
実感しなければどうして人を赦せるでしょう

ですから私は 自分の信仰による
自分に言い聞かせるようなものではない
罪悪感からの完全な解放を切に求めていました

言うなれば 罪悪感を持っている自分を
隠すようなことを止めたかったのです

結局それは りゅうくんを許さない自分を
最後まで体験し切ることで与えられました

怒ることを体験し切ると 突然
神様から自分は完全に赦されたという
実感が与えられたのです

自分の力で他人を赦すことを諦めることで
やっと得られた解放でした

赦さなくちゃ と思うのを止めて
神様からの赦しを受け取ることを
真剣に求める ということがやっと
身に付きつつあることも感じました

感情の代替が癖になってしまっているのを
神様が癒してくださっているのです

本来 ただ怒るべきところで
こう考えろ ああ考えろと余計な理屈で
怒るという感情をねじ曲げてしまうことは
神様以外の霊的背景から来ているんだな と感じました

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