自分が生きてきた手段を神様に委ねる

昨日 感情の解放があったことを書きましたが
どうして感情が封じ込まれてしまっていたかと言えば
その感情を感じるのが嫌だったからであり
感じたくないので他のことに置き換えてしまい
封じ込められてしまうのです

その「置き換え」を悔い改めて
また自分の感情と向き合う覚悟を決めたから
感情の解放が起こるわけですが

それは 過去に感じることを避けてしまった感情を
味わわなければいけないという意味でもあります

私が味わうのが嫌だった感情というのは
自分が置かれた環境に対して
悲しんだり凹んだりする ということでした

単純に 負けず嫌いだったので
どんなに嫌なことがあっても自分は幸せで恵まれていると
思うだけではなく口に出して宣言し
その様に振舞うことで実際にとても恵まれた環境を
引き寄せてきたのだと思います

しかし それが原因で神様に対して
上手く心を開くことが出来なくなっていました

怖かったり悲しかったり凹んだりする思いがあるのに
それを素直に認めることが出来ないので
神様の憐れみを受け取ることが出来なかったのです

神様は 私が辛い境遇にあったことを憐れみ
そこから救い出そうとしてくださっているのに
私は可哀そうでも辛くもないし
神様などいなくても自分で全てが出来る…

などということを私は一瞬でも思ったことはありませんが
神様の恵みを受け取りたいのに
上手く受け取れないことはわかっていました

自分の感情と向き合いたくないために
本来 身に付ける必要はなかったのに
生きるために必要に迫られて身に付けてしまった
様々な生きる術や考え方を全て捨てなければいけない

という部分で なかなか上手に
手放すことが出来なかったのですが

結局は その奥の本音を認めるのが嫌だったから
手放せないのだとわかったので覚悟を決めたわけです

しかしずっと避け続けていた負の感情を
味わうというのは大変疲れます

あまりにも酷過ぎて怒るのも嫌だから
スルーした ということも結構あるので
(というか それが私は本当に多いので)

思い出して向き合って 一先ず
正しく感情を発露して(主に怒って)から
赦しを宣言する という過程になるわけですが

微に入り細に入り様々なパターンの怒りを
思い起こされているので本当にしんどいです

しかしきちんとそのように吐き出さないと
自分の内にいつまでも溜まっているのは
もっと嫌なので きちんと
吐き出しきってしまいたいと思います

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