神様の方だけを見る

今日のQTからの示しは なかなか重たいテーマでした

イエスさまが 神様にしか決して出来ない御業を見ても
心を頑なにした人たちに対して呪われたお話でした

この件について新約聖書には このような表現があります

ヨハネの福音書3章18~19節
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の
御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

そのさばきというのは、こうである。
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。
その行ないが悪かったからである。

光よりも闇を愛するのは行いが悪かったからだ
ということが書かれているわけですが

当時のパリサイ人たちが愛した悪とは何でしょうか

それは 聖書に書かれている律法を逆手にとり
人々から搾取をする仕組みに象徴されているでしょう

人々が宮に捧げものの動物(羊や牛)を持ってくると
彼らはそれを調べますが その時に
実際には傷がなかったとしても傷があると言って
羊や牛を買わせていたそうです

また 宮の中を横切る人からは通行料も取っていました
裁きをするトップがそういうことをしていると
人々は 彼らがやることに逆らえなくなります

今で言うなら恐らく 警察や裁判官が
不当にお金を集めて従わない人は不当に扱い
自分たちにお金を払う人には有利な裁判を進めるとか
そんな感じであったのではないかと思います

また イエスさまの前に姦淫の現場で捕らえられた
女が連れて来られるシーンがありますが
律法には 姦淫があった場合に殺されるのは
男女の両方だと書かれているのに
その時に連れて来られたのは女1人だけでした

どうして女しか連れて来なかったのかはわかりませんが
当時の彼らが正しく裁いていなかったことは
こんな箇所からも見ることが出来るのです

彼らのケースは極端ではありますが
しかし 現代の世において クリスチャンの中にも
神様以外を信じて頼りにする人は存在します

神様が仰る「悪」というのは
犯罪や不正などの明確な罪を言っているだけではなく
神様を信じないことも悪だと仰っているからです

決して神様という存在が高圧的で支配的だからではなく
神様が仰ることや行うこと全てが
愛であり 義であり 誠実であり
公正であり 善であるなら
それに反するなら必然的に悪になる ということです

日本にある八百万の神という概念で考えると
理解し難いことかもしれませんが
唯一の創造主である神という存在が
絶対的に善であるということは
被造物にとって救いとなるはずですし
実際 そうであることに救いがあるのです

そして 今日のQTというのはその絶対的な善である方が
ある行いを「災いだ」と仰った時にどの様な態度を取るのか

という話だったのです

イエスさまは上述のパリサイ人達に対して
本来あなた方は人々を神の国へ導く立場に居ながら
自分も神の国に入らず また入ろうとする人々を
入れさせないから災いだ と仰いました

念のために言うと これは裁きではなく事実です
ただ単に 本当のことを言っているだけです

もしあなたは悪いことをしているから
地獄に落ちるとか罰せられると言い出したら
それは裁きですが そういうことを言っているのではなく
イエスさまは パリサイ人がどのような面で
災いとなっている ということを仰っただけで

その奥に 立ち返れという思いがあったとしても
イエスさまはそれを言い表すことを許されていませんでした

神様は 当時のパリサイ人が悔い改めることがないように
イエスさまが彼らに詳細な真理を話したり
示したりすることを許されていなかったのです

それは イザヤ書に書いてある通りに
彼らは聞くには聞くが悟らない という預言が
成就する為であったとはっきり書かれており

イエスさまはご自身が 貧しい人 虐げられている人
罪人のために遣わされたと仰っています

ですから 一つには神様が許されなかったために
当時のパリサイ人達は自分たちが罪を犯していると
認めることなく イエスさまを恨んだとも言えるのです

イエスさまは ご自身がしたいことは
何一つしなかったと告白しています

イエスさまは やろうと思えば
天の軍勢を呼んで敵対する人を
倒すことも出来るが それをしたら
預言が成就されないとも仰いました

その上で 今日のQTの話になるわけです

イエスさまは啓示において
神様が災いだと指摘する人を見た時に
それが悪魔の嘘だと思う必要はない
ということを仰いました

それが神様の公平な意見だと理解した上で
どの様な態度をするか決めなさい と仰ったのです

これは完全に 私のウィークポイントです

私は幼い頃から 明らかに悪いことをしている人であっても
この人にも事情があるんだと庇ってしまうタイプで
その態度は良い結果をもたらすことは決してありませんでした

しかしクリスチャンになり 神様から
はっきり指摘するようにと示されることが稀にあり
言うべき時は言うようになりましたが
決して気持ちの良いことではありませんし
反発されることも少なくありません

ですが 神様はそれをはっきりと言う時に
あなたは悪魔の誘惑に勝った と示してくださいました

罪に対して それは仕方がないことだ
罪ではない という態度を取るなら
自分自身も共犯となってしまうのです

私はそれを言うことで自分を守ったのだと
神様は褒めてくださったのです

そして 今日のQTは改めての

神様がそれが災いだと指摘する時に
どの様な態度を取るか という話になります

念のため言うと 決して私の思い込みではないという証拠に
大抵 こういうので悩んでいると次の礼拝で
牧師が「悪い態度」についてのお話をするので
逃げようなく 神様に示されていることがわかります

りゅうくんは その人を祝福を祈ると言ったのですが
私は 罪の只中にあり罪を悔い改める気がない人を
祝福はしちゃまずいだろう と思いました

そして 今まで神様は私に対してこう言う場合に
どうしなさいと仰ったかを思い巡らせました

それで思い出したのは 聖めの炎のことでした

礼拝堂で祈っている時 イエスさまが
わたしはこれからここに聖めの炎を投げ込む
それにより 自分は正しいと思っていた人が
悔い改めに導かれて嘆き悲しむことになっても
あなたは心を痛めることがないように
むしろ その炎が隅々まで行き届くように
聖霊の油が行き渡るように祈りなさい

と 仰られたことがあったのです

であるとしたら 私の態度は
悪いことをしており頑なになっている人がいるなら
その人に背を向けて 神様がなさろうとする
素晴らしいことに同意をして神様を賛美するかなぁ

と 思いました

神様が炎を投げ込み悔い改めへと導かれるなら
それは命を与えることであり 大変素晴らしいことです

イエスさまによる聖めの炎が隅々まで行き届き
何一つとして余計なものが残ることがないように祈る時
私はその人の方は向かずに神様の方だけを見る
自分のやるべきことだけに集中すると思いました

見てしまえば 憐れみが出てしまい
余計なことを言ってしまいそうな気がするので
自分が召されたことだけに集中したいと思いました

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