神様の守りの中での自由

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新しい学びがあまりにも楽しいので
もっと本腰を入れたいと思い
生活スタイル自体を変えることにしました

今までは 日記のためにQTをやっていたのですが
これからはその新しい学びをする前に
QTをやることにしたのです

のめり込みやすい性格なので
学びに集中してしまうとどうしても
心がそちらに行ってしまいますが

直線にQTをやっていれば絶対
神様を中心に据えて出来る と思ったからです

昨日も少し書きましたが 今やろうとしていることは
ネガティブな理由があって過去に
学ぶことを辞めてしまったことです

当時周囲の人から「先生によって成績は変わる」
という話を聞き そんな馬鹿な話があるか
自分のやる気の問題だろう と思っており
進学先選びも本当にいい加減で
家からの距離と入学金が免除になるという
理由だけで近所の学校を選びました

偏差値で言うと地域で最も低いのですが
スポーツでは全国で有名な学校で
成績の底上げをするために
大学進学を目指す人を少人数募り
入学金を免除していたのです

周囲の人からは 本当に良いの?と言われ
親からも お金の問題なら気にしないでと何度も何度も
念押しされたのですが 当時は体調も悪く
電車やバスで通学するのは絶対に嫌だったので
ここで構わないと言いました

しかし実際に入学してみると
勉強をする気が起きなくなるような
授業をする先生が本当にいるということを
思い知らされることになったのです

やる気さえあれば何でも出来ると思っていましたが
そのやる気を削ぐ教え方をする人なんていうのが
存在しているという事実に大変驚きました

尤もそれは教え方が自分に合わなかったというだけで
そんな環境下でも(授業を完全に無視して独学で)
成績を全く落とさなかった教科もあるので

逆を言うと 元々好きじゃなかったものが
今までは先生が良かったお陰で
出来ていたんだなぁと感謝することになりました

ちなみに 今振り返ってみれば私は
小学生の頃から先生の好き嫌いが激しく
先生が気に入らないと授業を全く聞かなかったり
(差別発言や暴力で押し付けて来ようものなら
授業を台無しにすることも厭いませんでしたし)
塾であれば先生を変えてくれと言う程だったので

どうしてこんな性格の子が 先生により
自分の成績が変わるというシンプルな事実を
受け入れることが出来なかったのか不思議に思いますが

「自分で出来るという高慢」は本当に恐ろしいということと
自分の力ではない ということを若いうちに学べたことは
とても良い経験であったと思います

しかし 高校卒業頃には体調も最悪になっており
卒業と同時に倒れてから2年程
ほぼ寝たきりで過ごすことになってしまいました

ところが2年後 体調が良くなった頃に
私が中学時代に唯一尊敬していた塾の恩師に
ご指名を受け 塾の講師をすることになったのです

大学進学のためのクラスに行きながら
大学に行かなかったどころか
2年間 ほぼ何もしなかったわけですから
自分の頭がどれほど劣化しているのかは自分でわかります

何故私なのか と最初は断りましたが
勉強は教えなくていい 生き様を教えろと言われ
まあ それであればと引き受けました

そして誰が教えても全く成績が伸びなかった子が
3学期の終わり頃には100点を取れるまでになっていたのです

ですが 勉強が出来る詰め込み型の子からは
面白くない 物足りないと不満顔をされました

そういう子たちが何を求めるのかはわかっていましたが
知的好奇心が満たされることは 私にとっては
雑談というくくりに入り 勉強ではないと思っていました

且つ そういう子は放っておいても出来ます
(実際 その子たちの成績はいつも優秀でした)

それよりも 勉強が出来ない中で
どうにか理解出来るようになりたいと
頑張っている子を応援したかったし

他の先生がさじを投げている子たちのことを
自分には理解出来て 支えてあげることが
出来るとわかることは大きな自信となりました

あの時 ダメな先生に当たっていなかったら
今の自分はありません

良い先生に出逢えたことへの感謝も持たなかったでしょうし
その先生に引き立てられて 学歴に関わらず
塾の講師をさせて頂き 結果を出せたことも
もしかしたら当然の結果だという思いを持ったかもしれません
(そもそもでそんな機会がなかったかもしれません)

また逆に あの最悪な体調の中で
良い先生 良い生徒ばかりの学校に行っていたら
自分がやりたかったことは一つも出来ずに
日々の勉強に明け暮れていたかもしれません

というのは 私は周囲の影響を受けやすいからこそ
環境について煩く言うタイプであるので
文句のつけようがない良いものが整っていたなら
それに対して何かを考えて動くようなこともせず
(それが自分に相応しいかどうかを考えずに)
与えられた環境で最善を尽くしただろうと思うのです

それは ある側面では幸せなことかもしれませんが
自分にそういった人生があったかもしれないとは
正直 考えたくありません

何故なら高校の時 私は勉強をする代わりに
全て費やして絵を描いていたからです

後にも先にも あれ程一つのことに
全力を尽くす時間はもう訪れないでしょう
(若さというのは本当に貴重です)

失敗経験があるからこそ人に言えることもありますが
しかしそれも マイナスをプラスに出来る
神様により聖められたことが一番重要です

以前は 色々な人が色々な意見を言う中で
どれをどのように解釈して受け止めて
自分の身としていけばいいのか全くわかりませんでしたが

私がどのように花を咲かせるものとして作られたかは
私を創られた方にしかわかりません
またその方は 私の知らない 自覚に至らないような
私の必要や思いすらも全てご存知なのです

幸い?なことに 私は幼い頃本当にずっと
人にあれこれ言われない環境に置かれてきましたが

(正確に言うと あれやこれや言う人とは
悉く衝突したり 霊的縛りになったり
トラウマになっていましたが 今に至るまでに
全て解放され 神様により聖められました

多くの大人は私の選択を信用してくれたし
迷った時にも押し付けることなく意見をくれました
任され過ぎて不安に感じることも多かったですが
今でこそ 環境に恵まれていることを感謝しています)

余計なものを背負ってしまう性格であったので
その様な環境というのは私を守りました

実際は守られていたのですが しかし私の主観は
誰かに守られたい という思いでいっぱいでした

そして神様に出逢い 神様の方を向いた時
神様のもの以外を一切背負わないことが
唯一 自身を幸せにするものだとわかります

神様の軛は軽く負いやすいということを
死んで生き返るというとてつもない受難を
背負った方が仰っているのです

人の力では到底無理なことでも神様にはお出来になる
そういう道を歩けることを本当に感謝します

今日のQTは このようなものでした

あなたは喜びとわたしとに集中してください
全ての患いや計画をわたしにもっと明け渡して
自分で背負わないよう気を付けなさい

その様な教えはたくさんありますし
その様なことをしている人たちは
素晴らしいように見えるでしょう

(その様な教え→自分で何かを背負い
頑張ることを良しとする教えのこと)

しかし あなたが健康であり喜びに満ちていなければ
あなたを通してわたしを見る人はいません

(暗に人の努力 というか私がしてきた努力は
病を生むものだったと仰っていると思います)

人の努力が称賛される中にわたしの栄光は現れるでしょうか

喜び楽しむ中にわたしはいます
仮にそれが本来の道からそれていたとしてもです

子どもが本来の道に行く間に
色々なことに興味をもつのを邪魔する親がいるでしょうか

焦らずにじっくり見つめるのです
そして望みなさい 求めなさい
あなたの必要はわたしはよく知っていますから

信仰は望んでいる事がらを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。
(ヘブル人への手紙11章1節)

今 勉強をしていることは 自分自身が
人に寄らず 神様の御手の中で学ぶことが出来る
ということを体験するための行動であると感じています

先生が良かったから出来た 悪かったから出来なかった
(或いは良い学校に行ったから 悪い学校に行ったから)
という「人」に振り回されていたところから
神様が創ってくださる安全な環境の中で
私に合った方法で学ばせて頂くのです

また以前のような 高慢な思いから来る
やる気があれば出来る という自力に頼るものでもなく
自分を低くして神様の守りの中に留まりながら
自分の自由意志により学ぶのです

それは粛々とした思いというよりは
子どもが自分のことをよく見てわかってくれている
親の保護下で安心して学ぶという感じです

私が切に求めていた守りが今あることに心から感謝します

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