心の傷を召しのために手放す

今日は ある姉妹から借りたDVDを見ました
フィジーのリバイバルのドキュメンタリーでした

深刻なクーデターが起き 国内が混乱した際に
クリスチャンの中に 教会同士の不一致に
この混乱の原因があるという思いが与えられ

牧師たちが悔い改め 一致し祈った結果
様々な領域で悔い改めの祈りが導かれ
奇跡的な神様の介入を得て国が回復しはじめた
その過程 大きなターニングポイントとなった
出来事や証が中心のお話でした

祈りにより 神に忠実な人が
政治の中心的リーダーとして立てられ
人のため 地域のために祈り また行動をしていました

フィジーには 魔術や人食の文化があり
過去には宣教師が殺された歴史もありましたが
それらの出来事が暗い影を落とした地域では
貧困や犯罪により行き詰まっていました
また水が病み 植物が育たず魚は来ず 食べ物がありませんでした

そういった地域で人々が真剣に悔い改め
新生を体験し 土地や水が回復し
今まで実を結ばなかった木が実を結び
草を生やさなかった土地に草が生えるようになり
食べられる植物を植えることが出来るようになりました
また魚も戻ってきたのです

そして 周囲の地域がその様子を見て
何があったのかと大変驚き その証に感銘して
神様に立ち返っているというのです

悔い改めの祈りを神様が受け取ってくださり
経済も健康も回復していき その証が広がっていくという
奇跡を目の当たりにしているのでした

フィジーのリバイバル自体は話には聞いていましたが
実質的に政府主導でこのことが行われている
ということに 大変驚きました

見終わった時 これを日本に当てはめて色々と考えました
日本が殺した殉教者の数を思うと
途方もないことだと思いましたし
日本特有の霊的背景にも思いが及びました

しかし一番は 自分の人生の中にある
神様に喜ばれないものを捨てることです

昨日の日記の続きとして書こうとしていたテーマが
正にそれで りゅうくんの物語を読んだときに
思わずうーん と唸ってしまったのですが
このDVDを見て 全く別の意味で自分自身を
省みなければいけないという思いが与えられました

祈るべきだとわかっているのに
祈る気になれず 祈ろうとすると
攻撃もある領域には 間違えなく敵の存在がある
それはそうであるわけですが それと同時に

出来れば敵に同意したいという自分自身の本音があるなら
敵も粘り強く戦ってきます それに効果があるからです

また 本音としては同意したいのであれば
出て行けと言って敵が出て行ったとしても
そこにある破れ口は破れ口のまま残ります

本心が敵の声に同意をしている限り
敵は何度でも戻ってきてしまい
そのうち 闘うのに疲れてしまって
闘わなくなってしまうのです

そのようにして 敵が居座り続けることを
許してしまうなら そこは敵の要塞になります

神様は自由意志を認めてくださるので
人が敵に同意する以上 その状況は許されてしまいます

りゅうくんが昨日書いてくれた物語は
たまたま昨日読んだ ある牧師の証と全く同じ内容で
尚且つ今までに何度か同じような証を読んだことがある内容でした

ある優秀な羊飼いに対して 羊飼いを育てて
今の群れをその人に任せられるようにして
そしてより多くの(そして養うのが難しい)群れの
リーダーとなるために 次の場所へ行きませんか?

という 神様からのメッセージを運ぶという夢でした

そのようなメッセージを運ぶ任務はとても重いものです
その人が神様を拒絶するなら私自身をも拒絶するからです

しかしふと思いました

もし 私が愛する羊の群れを持っていて
その様に言われた時に その群れから
離れることが出来るだろうかと

そう思ってから過去の自分を振り返ってみて
間違えなく離れることが出来るな と思いましたが
しかしその事で私の心が傷付いていたことにも気づきました

振り返ってみると 私はいつも
ある程度の土台が出来上がったり
これ以上私に出来ることがない
私はここで遣るべきことを遣り遂げたと感じると
必ずその場を離れるということを
ずっと繰り返して来ました

それは私の意図ではなく
何か大きな力に引っ張られて
私が望まなくてもそうなってしまう
という感じでした

時には その様にするべきだと
心を鬼にしてやることもあったし
時には 泣くこともあったし
私としてはまだ遣り遂げていないと思っても
振り替えると 離れるべきだったと
わかるようなこともありましたが

どちらにしろ 神様という土台を持たない時に
そのようであったことに対して私は
大変傷付き 疲れていたのです

私は自分の安住の場所を得ることは
出来ないのだろうか という思いがいつもあり
どこかに落ち着きたいという思いがありました

しかし やるべきことが終わっているのに
ずるずるとそこに長居をすることで
自分自身が害を為すものになることは
もっともっと嫌だったので
私は最終的には離れることを喜んでいたのです

私はクリスチャンになり その傾向が
無くなることを期待しましたがむしろ逆でしたが
りゅうくんとの結婚によりパートナーを得て
私は孤独ではなくなりましたが しかし今まで以上に
その傾向は強く また明確になりました

りゅうくんは 最初から私がいたので
そのこと自体を喜んでいたからです

しかし 私の傷付いた心が取り残されることになり
自分自身の召しを受け入れつつも 神様に
この件について私の心の癒しと平安を強く叫びました

そしてたくさんの癒しと解放を貰ったわけですが
今回の物語は その締めくくりであるかのように感じました

自分のこととしてだけではなく
それを 他の人にも伝えるという試練

それによって人間関係が壊れるのではなく
神様という土台により繋がることを期待する思いを持つこと

私自身がイエスさまにしっかり根をおろして
自分の召しや立場をかたく握らなければ
そのみことばを運ぶことは不可能です

ですが 確かに私はそのみことばを持って
この場所に立っている と自覚していたのです

過去の その様なシーンが多く思い起こされました

これは少し前 半月ほど前に
りゅうくんが物語の中で受け取ったものですが

あなたが心に示されたことを すべて明かし
人々に語り伝えることをしなければ その責任はあなたが負う
それは あなたが考え 心の中で思い起こして 口に出すことではなく
わたしの父がすでに備えて そのために言い送ったことなのだから
すべてことばを紡ぐものがその責任を負う
すべてことばを託し 語らせたものが その責任を負う

あなたは語らなかった故にその責任を負うはずだった
しかし あなたはそれを知らず 目を背けて責任を負おうとしなかった
それゆえ いまはあなたは責められない
しかし これからは あなたはこのことを知ったゆえに
そのとがを負わねばならない

特にクリスチャンになる前の私はいつも 言葉を託されても
それを伝えるのは私の役目ではないと思っていました

だからこそ私はりゅうくんとの結婚の際に
神様から 自分の思いやその取り扱いを詳細に
全て伝えなければいけないと示されましたが

りゅうくんにそれを伝えることが
私自身の訓練だったのだと思いました

自分がされて嫌なことを人にするのは嫌なものですが
しかし私とりゅうくんは当然ながら違う感性を持ち
同じものを見聞きしても違う反応をします

私が言われて嫌なことをりゅうくんは好意的に捉え
私が言われても好意的に捉えることを
りゅうくんは否定的に捉えることもあるので
私が言いたいか言いたくないかという
感情論で測ることは出来ないわけです

またクリスチャンになってからは 神様に尋ねて
それに従うということが出来るようになったので
仮に それによって拒絶されたとしても
神様は私に あなたが拒絶されているのではないから
気にしないようにと何度も何度も示されました

自分一人でそのことについて祈っていた時は
何かもやもやしたものがありましたが
りゅうくんと一緒に祈ってからはその事が
全く気にならなくなりました

神様に対する覆いを取るのは神様であり
私たちに出来ることは何もありません
ですが 私たちが神様からレーマを受け取り
それを伝える時 間違えなく何かが動きます

神様のみ言葉(レーマ)を伝える時
その人が神様によって変えられることを期待しますし
神様により整えられたことだけが
本物の 朽ちることのない良い実を結ぶのです

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