神様の恵みを運ぶ器としての態度

私たちの結婚指輪は サージカルステンレスで
とても丈夫ではあるのですが
色が洗剤か何かで化学反応を起こしたらしく
身に付けてすぐに色が変わってしまいました

私は体質的に ピアスやイヤリング
ネックレスやブレスレットなども
付けているとだるくなるのですが
指輪だけはつけていても苦にならず
今でも24時間つけたままです

結婚してすぐの頃 おもちゃですが
ピンキーリングを買って貰い
身に付けていてのですが

小指だと引っかけてしまうことがあり
柔らかい素材だったため 変形して
付いていた石が外れてしまい
サージカルステンレスのピンキーリングが
欲しいなぁと思っていました

また 最近では結婚指輪の傷も
かなり目立つようになり
復元出来ないかと買ったところに
ケアについて尋ねたり

これはこれで取っておくとして
普段使いに出来る指輪があったら
良いのではと思ったりしていました

そして もし普段使うものを変えるのであれば
りゅうくんもお揃いがいいなと思っていました

ところが りゅうくんはそれが嫌でした

しかも 嫌だということをはっきり言ってくれずに
一緒に考えてと言っても 真剣に向き合ってくれない
というだけだったので 私は大変不満を覚えました

真剣に考えてくれないなら
自分で勝手に買うからいいや と思いましたが
しかしそれでは私の心は満足しませんでした

結局 その話を親戚に話した時に
結婚指輪を変えるなんてあり得ないよな
と 親戚がりゅうくんの代弁をしたので
なるほどそういう価値観であったか と
納得をしたのでした

ちなみにうちの親は 結婚指輪は
大切に金庫にしまっておいて
普段つける指輪は別に持っていましたが
泥棒に入られて盗まれてしまいました

そういうのを見ていたのもありますし
自分は結婚前から指輪については
ずっとつけたままにするタイプだったので
劣化すれば新調するのは当たり前でしたし
服によってアクセサリーを選ぶのも
当たり前だと思っていました

何より この指輪はつけはじめてすぐに
変色してしまったので 本当は
変色が酷くなる前に普段使うものを
別に用意して取って置きたかったのが
ずるずると 使い続けてしまっていたので
どうにかしたかったのです

また それと同じことかもしれませんが

母が車をくれる前 何故かずっと私は
車を買うとしたらどんな色がいいか
ということを神様に尋ねてみたり
道を走る車を見て どんな色がいいかと
思い巡らしていました

別に本気で車が欲しかったわけではないのですが
必要があれば神様がくれるだろうとは思っており

母が車をくれると言った時は
早くないか!?と思うのと同時に
なんだ もう車の色は決まってたのかー
と 思いました

しかし 元々中古車だったこともあり
かなり落ちない汚れがたくさんありました

剥げたところについては塗る必要がありますが
それ以外については洗っても磨いても
落ちなかったのだそうです

別に 車が汚れていることについては
何とも思わないのですが
(むしろ汚れていればあまり気にせず
楽でいいなと思うぐらいなのですが)

しかし 元々色について思い巡らしていたので
可愛い色に塗り直したり
同じ色でも新品のようにするのは
なんとなく魅力があるようにも感じました

いつかきちんと塗り直すかなぁ?
いやしかし 車を塗ることにコストを
かける意味があるのか?と思いました
(15万ぐらいするらしいので)

また全塗装ともなると 事故の傷隠しと
勘違いされて価値が下がるというので
お金をかけて価値を下げるというのも
どうなんだろう と思っていました

そもそも こだわりがあるわけでもないし
その前に引っ越しだのりゅうくんの免許だの
かけるべきところはたくさんあるので
どのみち何年も先の話です

その頃にこの車を使っているかどうかも謎です
考えるのが楽しい(車が好き)というだけで
思い巡らすことを楽しんでいるだけだったのですが
そのうち まあいいや 必要があれば
神様がくださるだろう と思って
考えることをやめました

それから1~2ヶ月が過ぎていると思いますが

昨日の夜 買い物帰りに停めている車に向かうと
突然 車に対する物凄い愛がわき上がりました

何と言えばいいのかわかりませんが
ただそれがあるということだけで幸せで
落ちなくなってしまった汚れまでもが
愛しいという思いがわいたのです

何だこの感情?と思いましたが
直ぐにそれが自分のものではなく
神様の愛だということがわかりました

そして りゅうくんの指輪に対する思いも
きっとこれなんだと思いましたし
何より 常に不健康だった自分を愛するというのは
こういうことか と思いました

すると今度は 神様に愛されている自分が
とてつもなく愛しい という感情に満たされました

そして 神様の為にだったら私は
自分を傷付けた人を喜んで赦したい!
という思いに満たされて
思い付く限りの私を傷付けた人を
思い出そうとしました

今までは 自分を傷付けた人というのは
私にとって可哀想な人だったり
自分とは関係ない人だと思っていましたが
(そして 憎むよりも無関心なこと
愛がないことにコンプレックスがありましたが)

赦します 愛しますという思いがただ
「神様と私のため」だけに注がれて
愛がどうのこうのというコンプレックスが
全くなくなりました

しかし その感情は
私が救うよう召された人でないためか
私の中から余計な感情を取り去るだけで
すぐに過ぎ去って終わり その後は
重荷が消えて自由になったことだけを感じました

そしてそんなことがあったことは
すっかり忘れていたのですが
(昨日りゅうくんが書いてくれた物語が
あまりにも素晴らしくて そっちの方が
私にとって感動だったこともあります)

今日 QTをしていて その時のことが
思い起こされたので書き留めることにしました

この体験は 私にとっては不要なものを
手放して自分を愛する過程に過ぎません

自分によらず 神様によることが
本当に感謝であると思いますが
しかしそれは本当に過程に過ぎないのです

QTで 神様が示されたこと
それこそが大切なことでした

愛する澄子
こうしたらいいのでは ああしたらいいのではと
あれこれやる時間を神に捧げ神様を待ち望み
賛美し祈る時間を持つことをしたら
どれ程に素晴らしいでしょう

あなたは今朝 喜びと愛をもって
過去自分を傷付けた人を赦しました
それは誰のためでもなく神のためであり
神を一番に愛して 次に自分を愛するためでした

その愛は誰から出たものでしょうか 父からです
あなたの思いや努力に寄りません
あなたが祈り求めてそれが聴かれました

父があなたをどれ程に愛しているのかを受け取りなさい
何かのためにではありません
苦しみから逃れるためでもなければ
何かを得るためでもありません

あなたは一番良いものを熱心に求めました
父はそれに喜んで応えられました

わたし(イエスさま)はあなたを
父の元へと運ぶ器に過ぎませんが
しかし同時に父の心はわたしの心であり
わたしは自分の王国のよき管理者であり
統率するものであり命です
わたしの言葉はあなたたちに命をもたらします

父の手元には良いものが溢れています
そしてそれらについて 誰に何をどれだけ
任せようかと選んでいらっしゃいます

あなたはそれを見て顔を背けるのではなく
(欲が出るのを恐れて顔を背けてしまうのを止めて)
自分に割り当てられた分を受け取って喜び
また人に割り当てられた分をも喜び
もし誰かのもとに運ぶこととなったら
そのこともまた喜びなさい

御国の資源を父が地に流そうとするのを見たら
あなたは自分の立つべき場所に立って備えなさい
あなたはそれを任される者となりなさい

求めなさいと言われても
自分自身を受け入れていなかったので
自分が何を求めているのかについて
自覚することを避けていたのかな と思いましたが

私はそれ以上に素晴らしいものを
心から求めていたことを喜びます

神様を求めること以上に素晴らしいことはありません
そのように私を創ってくださったことに
心から感謝します♥️

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