イエスさまは病人のために来られた

昨日 霊的な打ち破りがあったので
今日は久々に場が「平常通り」になりました

そんな中 思いが与えられて
新しいことを始めました

先日教会で いくつかのビジョンを
神様から与えられましたが
その中で 私が祈るべきではないこと
重荷とするべきではないことについて
明確に示されたものがありました

それを手放すことに対して
今回 大きな霊的闘いがあったので
それを背負わせていたのが
敵であったことは明確でした

その重荷は人からもたらされました
その重荷をもたらす人の周りでは
人々が病み 人々が怒っていました

しかし 神様は怒って離れた人に対しては
とりなさなくて良いと仰有いました
その時に与えられたのは
わたしは健康な人のために来たのではなく
病んだ人のために来た というみことばでした

この世の攻撃に対して この世の力で
闘う人を神様は必要としておらず
この世の攻撃に対して 神を求める人のために
神様はご自身を捧げたのだ と感じました

怒ることが良いか悪いかではなく
怒ってでもなんでも 自分を傷付けるものから
自分の力で離れることが出来るのであれば
神様は必要ないということです

人には強いところも弱いところもあり
弱いところには神様の栄光が現れます

しかし強いところについては自らの意思で
神様に捧げなければいけないのだなぁと感じました

その時に 有名なメッセンジャーが
神様との関係を更に深めるために
何をするべきか祈ったときだったと思いますが

ショッピングカートで車まで荷物を運んだ時に
カートを片付けずに放置するのを止めて欲しい
と 示されたということを思い出しました

クリスチャンであっても ルールを守らず
ルールは守らないけど守られますように!
と叫んでいる人をたまに見掛けます
ルールは守らないけど と言っている時点で
確信犯なわけですが

それでも神様は優しくて恵み豊かな方なので
そういった祈りでも聴かれているなぁと
思うことはよくあるので 人を裁くのは
本当に 神様の御心ではないと感じます

また 最近もうひとつ感じることがありました
それは モーセが一人で民を率いるのが重荷となり
神様が注ぎの器70人に聖霊を注がれたとき
集会に来なかった2人にも聖霊が注がれ
預言をしたことを ヨシュアは怒りましたが
神様が油注ぐのだからその様に言ってはいけない
と示された時のことです

この事は ダビデがサウル王のことを
最後まで王として敬い続けたことにも
通じるものがあると感じます

神様の友と呼ばれた人達は
例え神様が人を戒められても
戒められる人を裁きませんでした

それこそが神様の御心だからでしょう
神様が戒められるのは滅ぼすためではない

だからこそ モーセが
何故おまえたちのために神の恵みを
現してやらなければならないのかと
怒りながら岩を叩き水が涌き出た時に
モーセは大きな代価を支払うことになったのです

パリサイ人達も 罪人に対して
愛や寛容を全く持ち合わせていなかったし
それどころか罪がない人に対してまで
言い掛かりをつけてお金を巻き上げていました

これは 聴き従わない人に教えることとは別です
神様を利用して悪を行っていることです

事実 律法や神様の預言を盾にして
神様の愛ではなく自分の思いを現す人は
今の世でもたくさんいると感じます

ルール違反を重ねながら
何度も災いを起こすクリスチャンに対して
ルールを守るように教えているのに
私にはルールを守らない自由があるのに
そんなのは神様の御心ではないと
叫んでいる人もよく見掛けますが
この場合は違反をする人の問題です

しかしルールを知らない異邦人が
偶像崇拝をするのを罪人だと言って
裁いたり避けたりすることについては
口ではわたしを崇めながら
心は遠く離れたものなのです

神様の愛 神様の御心を現さないことにより
神様が誤解されることは 当然ながら
神様の御心から遠く離れています

その様に 神様の素晴らしさに対して
自分を押し通そうとする人が負う代償は
神様との関係が深まらないことだと思いますが
そういう人を「健康な人」だとイエスさまは示されました

神様は一度器として選んだものから
注いだものを取り上げませんが
神様と共に用いることなく 人の思いで
その賜物を用いることになり

それがどういう意味を為すかは
通ったものにならわかると思いますが
まるで 砂漠のようだと感じます

恵みは悪人にも注がれると
聖書に書いてあります
正にその通りなのです

しかし私は 神様の恵みだけが欲しい人のためには
召されていないと神様が示してくださいました
健康な人のために私は召されてないのです

それはよくわかります 何故なら
私自身が健康であった時がないからです

しかし 健康な人のために遣えることが出来ないのは
自分にとってはあまり気持ちの良いことではありません
分け隔てなく居たいと思っていたからですが
要するに コンプレックスだったのでしょう

私は自分が健康ではないことは好きではなかった
なかなかそれを愛するというのは難しいことです

しかし 今の季節私たちのテーマは
自分自身を愛することなのです

その為には 健康な人に対する
コンプレックスを捨てなければ
いけないのかなと感じました

健康でなかった自分を愛しなさい
そのレーマを受けた時 涙が出ました

イエスさまは 病人のために来られました
私のために来てくださいました

私は私の背負っていた背負うべきではないものを
完全に捨て去り 自由になりたいです

自分の中にある石の心を神様が柔らかくして
肉の心としてくださいますように

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