自分の身分

今日は預言セミナー(2順目)の初日でした

全6回のシリーズで 一度修了していますが
内容がブラッシュアップされているということで
2度目の受講大歓迎!となっていましたし

何より 預言の訓練の機会は貴重なので
参加させて頂いて参りました

第1回目の今日は 預言の基本として
預言する動機や 聖霊に満たされること
また預言が建て上げる対象である
キリストの花嫁(教会)についてのお話でした

最初の 預言をする動機の講義の最後に
肉の父との関係で 心に傷があると
父なる神との関係に影響があることと

自分がされた酷いことを赦さずいると
自分の子に同じことをしてしまうので
赦す決意をする という祈りの時間がありました

その時 私は自分と肉の父の関係について
気付いたことがありました

私は肉の父に何の期待もしておらず
愛されたいとも思っていませんでした
というのも 彼は彼なりに私を子として
扱ってくれていたし 親らしいことは
してくれなかったかもしれないが
父には代わりがなく それが私の
置かれた場所なんだから仕方がないと
ありのままを受け入れていたからです

自分がどうされたかった と思うのは
無い物ねだりだと思っていました

しかし今になって思うと
それを求めてしまったら
父を憎んでしまうから求めなかった
と いうことのようにも感じます

だから神様は私がクリスチャンになった頃
父の家を忘れよ と何度も何度も
示されたのだと思いました

とにかく 今日のその祈りの時間
私は自分が父に愛されるべき存在だということに
心を開かなければいけないのだと気付きました

父などいなかったと泣くのではなく
肉の父がどうであるかは全く抜きにして
私という存在は 父の愛を受ける
権利を持ったもの そういう身分のものだと
理解して受け入れる必要があるのだと気付いたのです

講師の牧師は 祈りの中で
肉の父に代わり謝罪する という
預言的行為をしてくださいました

もし肉の父に怒りを持っているなら
それにより赦すことを受け取るのでしょうが

私は肉の父を 父という存在として
認識していなかったためと思いますが
誰だかわからないけど私に
その事を謝罪してくれる人がいて
私はそれを受け取るんだ という
不思議な感覚がありました

それを受け取ることで 私は
もっと深く神様と繋がれるという確信があり
それを受け取れる機会を与えられたことに
心から感謝する思いで満たされました

その後 ルカの福音書15章の後半にある
放蕩息子のお話を 帰還のシーンまで読んで
そこから神様が私に何を語ってくださるか
聴きましょう という時間がありました

その時に 私が語られたことは
全くもって仰有る通りです と
頭を低くするしかない内容のものでした

あなたは豚に餌をやるような仕事でも
職業に貴賤なしと喜んでやるところがあり
奴隷とも分け隔てなく友達となり
この人たちも私と同じように扱って欲しいと
親に掛け合おうとするところがある

しかし あなたは自分の身分をわきまえなさい
彼らに対して良い主人となるべきであり
彼らを主人の座に引き上げようとしたり
そうでなければ嫌だと駄々をこねるのは間違えだ

彼らには彼らの分があり それは区別されるべきだ
いい加減に彼らに騙されることから目を覚まし
よき管理者 主人としての在り方
良い主人となるための学びに本腰を入れなさい

このレーマを受けたとき

そうか 奴隷は財産を盗み壊すために
私のこの垣根のない 誰とでも友となろうとする
性質を利用しているだけなのだと気付きました

こちらが友と思っても 彼らは私を憎み妬んでおり
ただ私のこの性質を 心では馬鹿にしながら
利用しているだけなのだと気付いたのです

(念のため言いますが 背後の霊のことです)

箴言に 奴隷が王となることは
震え耐え得ない(恐ろしいことだ)と
書かれていることを思い出しました

それを望むことは誰も幸せにならず
それが起きれば悲劇が降り注ぐのみです

私は とんでもない思い違いをしていたのだと
本当に 悔い改める思いを持ちました

また 今までは赤子にミルクを飲ませるように
神様から育てられていたと感じていましたが
このレーマは言うなれば「固い食べ物」です

私と神様との関係が 今までと違う
新しい関係に入ったのだと気付きました

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