愛する自由を手に入れる

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先日 ある姉妹より「愛する順番」
一番に神様を愛し 次に自分を愛し
その次に周りの人を愛するということを
毎朝祈るようになってから とても
良い感じであるという話を聞きました

何となく りゅうくんの順序が
神様の次に本人ではなくて
私になっている感じがしていたのですが

よくよく自分自身のことを考えてみると
私自身も自分を愛するということに対して
かなり無頓着だなぁと思い至りました

また 平行して先日神様から
捨てるように言われた人間関係の概念について
りゅうくんにシェアしてみるべきだという
思いが与えられて話をしてみると
りゅうくんも全く同じ思いを抱いていて
それが自分自身の問題だと感じていました

要するに お互い問題が同じだということです

しかし 神様が私に与えてくださった
私が大切にしていた古い概念は過ぎ去って
新しいものが与えられるということを
自分自身だけに当てはめて考えると
よくわからないところがあったのですが

りゅうくんと私の共通の問題だと思うと
神様がどんな意味で私にその新しいものを
与えようとされているのかについて
新しい知恵と祈りの言葉が与えられました

結論から言えば 私のそれは
他者がこのようであって欲しいと思う
自分の姿に左右されることを一切否定して
神様が創造された通りに生きるという宣言でした

そもそも 私は神様が造られた姿から
離れるつもりは微塵もないのですが
とは言え今の私は 神様がお持ちの私像を
知って 受け入れようと努力している最中で

まだ足元が固まっていないので
その弱さを人を通して攻撃してきている
背後の霊の存在があるわけです

人が私に「私像」を描いて その通りでないからと
悪く言ってきたり 避けられたりするのは
相手が敵に同意をしているのが原因であり

近しい人や友人だと思う人が その様なものを
持ち込んでくるのは 私の霊的権威にあった
友達についての代々続く呪いがあるせいでしたが
それについてはとりなしの祈りをしたので
私は既にそこから解放されました

しかし 神様は私に対して
あなたが思うような友達を欲しても
それは与えられず 今後あなたに与えられるのは
愛すべき兄弟姉妹であると示されました

その時 私は産まれながらに呪いの中に育ち
正しい友達の概念を学べなかったし
それは私の人生に必要ないのだなと悟りました

何故なら 私が若い頃に本当に大切だった人達は
家族と同等に私を扱ってくれるような
人達ばかりだったからです

私は何も それを「友達」と名付けなくても
家族のように愛する人たちで良いのだと思いましたし
今まで関係が出来た人達やこれから出逢う人たちが
みんな霊の家族になることは私の切望するものです

では家族と友達はどう違うのか
これは全ての人に当てはまることではなく
私の中にある友達像と家族像の違いなのですが

もし友達が悪いことをしていたら
悪いことをしているままに愛し寄り添います
時に自分が被害を被ったり騙されたりしても
友であり続けようとします

しかしもし家族が悪いことをしていたら
熱心にその事に目が開くようにします
目に余るなら家から追い出して
自分を含めた他の家族を守るために
悔い改めるまで家に入れないでしょう

実は私の悩みのひとつに 友人についての
この境界線のことがあったのです
神様は 私にはもう友を与えないし
私の役割は寄り添う姿勢ではなく
相手が良くなると信じて建て上げることだと
明確に示してくださったのです

よくよく考えれば 悪いことをしている人ほど
寄り添う姿勢を求めて来ます それが敵の手口です

しかし 相手が神様の創造されたものに対して
自分の思いを押し付けようとしているのだから
私の問題ではなく 相手が神様に対して
反抗しているのが現れているだけなので
反抗の裏に存在する背後の霊に対して
凛としているべきだなと思いました

また この事をはっきり理解した時に
神様が私に持たれているイメージ通りに
人を愛する自由というのも感じました

常識や人の思いに囚われることなく
神様の愛を流すものになりたいと思いました

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