自分を砕き捧げるという恵み

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先日 ある人と話をしていたことがきっかけで
ある事柄について真剣に祈る機会がありました

自分が傷付きたくないからと身を守ってしまい
真摯に向き合わなかった出来事についてです

もし私が真摯に向き合っていたら
時間はかかったかも知れませんが
良い結果を産んだかもしれないのに
私はそれに関わる時間を惜しみました

それは 愛がなかったということです

しかし同時に 神様がそこに愛を注げとは
示されなかったということでもあります

実際 神様はもうそこには
行かなくて良いと示されました

しかし 自分に愛がないと思うことを
敵が責めてきた時に同意をするなら
敵に権威を握られてしまいます

もし自分で自分を責めていたとしても
敵が責めてきたときに
黙れと締め出すことは可能です

もし同意をしてしまっていたなら
その契約を破棄することも可能です

しかし 破棄して終わりではなく
その悔いた心を神様に捧げる時に
神様は喜んで受け取ってくださいます

神様がそこから離れなさいと言ったから
と思うだけならいつまでも
自分自身の愛が育ちません

自分の愛を捨て 神様に捧げる捧げ物にする

そのように祈ったとき
様々な重荷から解放されました

そして同時に 自分自身の本質であり
問題でもある部分に光が当てられました

自分の賜物を 自分の思いで使えば
間違えるということを示されました
それは最近のことではなく
若い頃に私がやっていたことであり
今 自分が避けていることです

その時に このみことばが示されました

第一コリント人への手紙6章19-20節
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、
神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、
もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

今は このみことばを心に生きていますが
過去はそうではなかった その時の自分が
まだ残っているということだと思いました

先日書いた通り 自分の内にあるのに
自制をしようとするならそれは
罪を隠す偽善のようなものだということです

わかっている やっているつもりでいる
そういう事柄にこそこの過ちが
潜んでいるのだなぁとしみじみ思いました

隠れた問題を神様が示してくださったことに
心から感謝し 手放すことを宣言します

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