自分の愛を捨てる

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過去にあった出来事も込みで
最近 語られていることや
起きている出来事に共通しているのは

以前にも書いたことなのですが
神様がご覧になるのは心である
という一点に尽きる ということでした

神様は誰にでも御恵みを注がれるし
一度なさった約束や与えたものを
取り上げることはなさいません

しかし 御国に入る保証となるのは
聖霊であると聖書に書かれている理由は
聖霊は 人に善悪の分別を教え
何を祈ってよいかわからぬ人のために祈り
神が語ることを語るからなんだな と実感しました

神様は人に自由意思を与えておられるので
神様の語りかけを受けても
その心が神様とひとつでなければ
その人の心が口から出ます

どんなに神様から恵みを受けても
自分の中心に聖霊さまを持っていても
預言を受けても愛を注がれても
人の心にあることが口から出る
或いは行いに繋がるのです

ですから 聖霊さまがどんなに
素晴らしいことを語ってくださっても
その人の心が貧相であれば
その言葉や行いは貧相なものになるし

その人の心が神様に対して頑ななら
言葉や行いも過去の自分のまま
頑なになってしまうということです

パウロはこの事を明確に書いています

ガラテヤ人への手紙5章17節
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、
御霊は肉に逆らうからです。
この二つは互いに対立していて、
そのためあなたがたは、自分のしたいと
思うことをすることができないのです。

神は 人にある自由意思を尊重しており
語るからと言っても強制はされません

最近思うのですが 自分の中に
愛があることであれば
聖霊が語られたときに喜んで
行動することが出来るので

心に愛があるかどうかって
本当に大切だし それだけが
動機となるんだなと思うのですが

それは 私が愛を動機に生きるように
設計されているからなのかもしれません

私の愛を捨てて 神様の愛に生きる
そういう試練を歩いている

その様に振り替えると
合点が行くことがたくさんあります

過去の私は 確かに愛を基準に生きており
そして その愛を敵に壊されたことで
人生が壊されたと感じていました

私は自分の愛を捨てて 神様の愛に
生きることを宣言します

余計なものを掴んでいたら
神様が備えられている 私が愛すべき人に
愛が届かなくなってしまうからです

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