より深い場所への光

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先週末の話になりますが
りゅうくんをはじめ いくつかの
霊的な縛りをする中で 喉がやられてしまい
教会のヒーリングルームで癒しを受けました

その時に「余計な悪いもの」は取れた感じがしましたが
残った痛みについて 何か神様との関係の中で
癒されるような気がしたため
それ以上 癒されることに対して
頑張らないでおこうという思いが与えられました

というのも 自分が神様に対して心を
開き切っていないところがあるのを
最近感じていたからです

正確に言うと 神様に向かって心を開いたら
思ってもみなかったような出来事が起きて
びっくりして心を閉ざしてしまった ということが
過去にあったのですが

それに対して何度も神様から
もうこんなことは起きないと示されているのに
まだ警戒しているような感覚があったのです

それに対して 心を開きますと祈った時
更に奥の方へと光が当てられたことを感じ
それに伴い ある出来事が思い起こされました

実は神様かどうかを警戒するに至った一番の理由は
神様から示されたことを
それって本当に神様から来たものなの?と
言う人がいたせいなのですが

もしそのように言われても
神様から出たものだから大丈夫ですと
堂々と言えた場合については全く影響がありません

ですが 一瞬でも疑ってしまうと
その背後の霊にやられてしまうのです

その背後の霊の1つに 宗教の霊というものが
存在することを最近示されました

宗教の霊というのは こうでなければいけない
こうあるべきだと強要してくる偽りの霊です

過去 私の中にもそれは確かにいましたが
ことあるごとに神様から砕かれました

例えば 献金をすることについて
「しなければいけない」「しなければ恵みを受けられない」
という嘘つきの宗教の霊が強くいる場所において
私もそれに同意をしていたのですが

それは 過去に日記に書いた通り「聖書的」に砕かれました
イエスさまだけが御心を示された 参照

仮に神様から頂いた恵みであっても
偶像化してしまうことはあります

モーセの時に人々を救った青銅の蛇は
士師記の時代に偶像として砕かれました

例え神様からのみ恵みであっても
自分自身の思い 自分自身の信念で
それを実践しようとするならそれは偶像です

神様への愛と 神様のご性質に対する信頼の故に
心から喜んでしなければ神様は喜ばれません

話を戻しますが

過去に自分がやられていたものに関しては
神様が砕いてくださいました

しかし クリスチャンになってから
クリスチャンの背後にいる霊にやられたものについては
神様が一緒に砕いてくださっていると感じています

「それは本当に神様から出たものなの?」

という言葉は正に蛇の用いた誘惑の手段であり
そこには人の思いや疑問というものを遥かに超えた
敵の力が働いており それを真に受けてしまうと
大変心が傷つけられてしまいます

その時 私はある1人を除いた全員に対して
神様から出ているものだから大丈夫と言った上で
神様から出たものであるなら 神様が
彼らにそれを証明してください!と祈りましたが

ある1人に対してだけ 大丈夫ですと
言えなかったことが思い起こされ
そこから敵の侵入があり 長い間
悩まされていたということに気付きました

どうしてそう言えるのかというと 実は今でも
その後もその人から言われる何気ない言葉に
とても傷付けられる思いがして
何かがおかしい と思っていたからです

本人は悪気がないのがわかるし
言われている内容も大したことではないのに
物凄く 必要以上に傷つく感じに加えて
自分のものではない怒りの感情が湧くのです

怒り自体は縛り上げる 出て行けと言えば
収まることなのですが もしかすると
その人が持つ何か霊的な問題に対して
打ち破りを体験するのが御心なのかもしれません

よくわかりませんが(もしかしたら違うかもしれませんが)
どのみち 背後におかしな霊がいるのでしょうから
それを縛り上げ その人が解放されるように祈りますし

自分自身とそれがいったいどんな関係があり
この件を通して何を神様がされようとしているのか

私にとってどんな意味があるのかについても
光が当てられるようにと祈りたいと思います

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