一人では歩けない道

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私と付き合いが長い方は 私が
物事をあまり包み隠さず話すタイプであると
よくご存じであると思います

以前は 話過ぎたかなぁと
後悔することもありましたし
言い方が悪かったかな?と思うこともありました

しかし 神様がそういった罪悪感に対し
神様が作ったイメージ通りでいることに対し
堂々としているようにと重ねて示された後に
私が失敗した?と思ったような発言が
思わぬ形で人を建て上げたり
神様の御業が現れたりするのを見たので

神様に委ねて 言うことを選んでいれば
大丈夫だという自信が付きました

しかしそれも クリスチャンであったり
神様がこの人を選ばれているな という
確信がある時については良いのですが

そうではない場合 言ってしまえば
完全にこの人の属している世界は
この世であるなとよくわかる相手に対しては
何をどこまで話せば良いのか
悩ましいこともよくあります

特に 神様が自分に賜物として
与えてくださっていることを
あまり人に言いたくない領域

自分に生来の賜物がある故に
神様と出逢う前に傷付いた領域については
どのようであるべきか本当に悩みます

しかし 神様と共に発言を重ねていく先に
回復があることもわかっているので
怖気づいてしまって発言を避けるなら
それは敵に負けていることになります

基本 勝気なのでそういう選択を
自分ですることは絶対にないわけですが

かと言って 自分から進んでそこに
突っ込んでいこうとも思わないわけです

そういう意味で ここ数日
苦手領域に行かざるを得ない状況が
何度かあったのですが

そこで与えられた思いは
自分の努力で変えようとか変わろうとか
思う必要は全くないということでした

そうではなく イエスさまを着ることを
切望する その飢え渇いた祈りこそが
必要なのだと感じました

神様のために何かをやらなければいけない
何かを言わなければいけない
努力をして恐れや苦手意識を乗り越えて
行動しなければいけない

こういう思いこそが敵の嘘であると
神様から示されました

そうではなく

自分には無理で自分では出来ないことだから
神様が私を用いてくださるように
共に働いてくださるように祈るのです

そのような感覚で祈り始めたところ
神様が どれほどに私の祈りに応えて
働いてくださっているのかが霊の目で見えました

それは本当に驚くべきことで
私のような小さなものの祈りを聞き
こんなにも神様が働いてくださっているのだ
ということに霊の目が開かれたとき
とても大きな感動と感謝の思いが湧きました

そして 神様への感謝と賛美が
とめどなく溢れました

声に出して言っていたわけではなく
メッセンジャーでりゅうくんに向けて
それを書いていたのですが

りゅうくんがそれを読み
まるでソロモンの時代に神殿が完成した時の
祈りのようだと言いました

その言葉を聞いた(読んだ)時
今の時代は私たち一人一人が
神様の神殿であるということが思い起こされ

私という神殿が神様により
完成することこそが
イエスさまの似姿に近づくことで
それこそが生きる目的なのだ
という思いが与えられました

神様は 自分自身の地境が広がることを
もっと祈りなさいと仰いました

同時に 自分のために奇跡が見たいと祈った人が
奇跡を見たいなら人のために祈りなさいと
示されたことと同じように

人のために奇跡が見たいと思うのなら
自分のために祈ることでそれは為されると
示してくださいました

このことについては 別の表現で
この様にも示されました

もし自分を守るために人のことを祈るのであれば
あなた自身のことを祈りなさい
もし 人のために祈るのであれば
あなたの願いとして祈りなさい

当然と言えば当然なのですが
私が祈る祈りというのは 私の祈りなのです

私が誰かのために何かを祈るなら
それは 私自身の願いなのです

行動により 実践により
私の心の奥にあるものに
光と希望が与えられていると感じます

私にはそれは無理だと思うことも
神様には出来ます
そういう道を 神様は私たちのために
良い道として用意してくださっている

当然ながらその道は
神様と一緒に歩く以外には
決して歩むことが出来ません

私は その道を歩くことに対し
神様に 大きな期待を寄せます

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