神様に心を開く

明日は 洗礼記念日なので
何人かに声をかけて一緒に
食事をしようと話していたのですが

ぎりぎりになり全員の都合が
つかなくなってしまいました

どういう意味かなーと神様に
尋ねていると これからまた
新しい時期に入ることを示され

その直後に今までほとんど
話をしたことがなかった人から
メッセージが入りました

直前に都合が悪くなった人も
新しい 会ったことがない
遠方から来る人たちと
会わなければならなくなった
と言っていたなぁと思い

今は前を見る時なんだな
と思いました

昨日 神様との関係が
なんとなく変わったことを
書きましたが

主観で言うなら神様が
いらっしゃる位置が変わりました

今までは 目の前や隣の
席に座っていてくださり
話し掛ける感じであったり

後ろにいて一緒に何かを
してくださるような感じでしたが

今は 私の心の前にいて
私の心を守ってくださったり
私の心よりも先に思いを
与えてくださるような感覚です

今までの平安は 心の奥に
与えられる感じでしたが

いつも暖かいものに
守られているという
安心感があります

そして 前述の通り私の思いとは
全く違う言葉が与えられることと

私の望みや願いを神様が
引き出そうとされていることを
とても強く感じます

このことが一番顕著に
現れているのがQTで
今までであれば QTをすれば
その言葉は心に残り
何度でも思い起こして
掴むことが出来たのですが

ここ数日のQTは 書いても
全く頭にも心にも残らず
忘れてしまうのです

一番の理由は QTの
元になる聖句と全く
違う内容(と私が感じること)が
示されるようになったことです

書き記す方法を変えて
何度も読み直す必要があるなと
感じていますが

語られていることは一貫して
私の望みや願いを引き出すことを
神様がされている ということです

例えば以下のようにです

愛する澄子 みことばを食べ
喜び建て上げられることを
あなたが本当に
望んでいることを感謝します

ですが あなたはあなたの心を
置いてはそれは出来ません
あなたは癒されて
心からそれを喜べるように
ならなければいけません

あなたが喜んでいないなら
それはわたしの心ではありません

求めなさい あなたはもっと
心を大きく開き 本当のあなたが
求める全てを求めるのです
妥協してはいけません

何か問題が起きたときに
それを問題だと感じる根拠は
本来はこうであって欲しいという
思いがあるからです

しかし こうあるべきだという
願いはただのコントロールであり
そのような祈りは聞かれません

そうではなく こうあるべきだと
思うに至った背景にある
自分の本音に気付き それを
願うことを神様は望まれています

人には 人それぞれに
成長の時期や課題があるので
そのこと自体にこちらの思いや
都合を押し付けることは出来ません

私の問題と人の問題は
一緒ではなく
人の問題を用いて敵が
奪い取ろうとするものを
守らなくてはならないのです

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