物理的な片付けと霊的な片付け

今日は 今までになく
自分の賜物を使う機会が集中したのですが

QTで神様から 賜物をもっと
用いるようにという促しがあったので
背中を押されたように思いました

また コツというか どういうタイミングで
どのような感覚で言葉を紡ぐときに
神様が働いてくださるのか というのが
具体的にわかるような出来事もあり

感覚的にそれが掴めたということは
賜物を用いることに対する自信になりましたし

以前だったらネガティブに捉えていたことが
実は全然ネガティブになる必要がなかった
ということも神様から示されたので
色々な意味で肩の荷もおりました

そんな中で 霊的大掃除と
物理的な掃除について もし
神様に祈って示されたら書いて欲しい
というリクエストを頂きました

そして それを書こうとすると
霊的邪魔が物凄く多く入ったので
これは御心かなと思いつつ書き進めますが(苦笑

実は 物理的に片付けることに対しては
神様は あまり重きを置いておられず
時と場合によっては 片付けないようにと
示されることもあります

以前 教会の牧師が証ししてくれたのですが
あるドイツでの預言的打ち破りの行動として
紙で作った大きな横断幕を
日本人とドイツ人とで破り捨てる
ということをしたそうですが

それが終わった後 当たり前のように
片付けをしようとすると
神様より 片付けをしてはならないと
示されたのだそうです

こういう時にきちんと片付けようとするのは
ドイツ人と日本人ぐらいであり
片付けない国民の方が圧倒的に多いから
そういう人たちのことを理解するために
片付けずにいるように示されたそうです

これを聞いた時 律法学者たちが
弟子たちが食事前に手を洗っていないと
非難した時のことや

ベタニヤのマリアがイエスさまの前で
お話を聞いていた時に マルタが
手伝うように言ってくれとイエスさまに
言った時のことが思い起こされました

勿論 神様は片付けなくて良いということを
言いたかったのではなく 片付け以上に
神の臨在に留まることが大事であると
仰っているのですが

過去に偶像崇拝をしていた女性が
部屋を綺麗にしていないから
神様が来ない と言っていたことがありますが
この考えは絶対に聖書的ではなく
偶像の世界の嘘であるということがわかります

では 霊的な大掃除をした時に
大量のゴミが出されるという現象が
起きるのは何故か というと

それは その空間やそこにいた人が
悪霊によって 不衛生な死んだ状況に
縛りつけられていたのが解放されたから
なのではないかなと思います

それに似た状況であると思いますが
実家のある一室 両親の寝室だった場所に
亡くなった父が収集していた
偶像や置物が埃まみれになったまま
何年も放置されていました

母曰く 片付けようにも片付ける気力が出ない
ということだったのですが
私とりゅうくんとで何度かに分けて
土地の呪いの打ち砕き 空間の浄化
全ての偶像や置物の浄化と背後の霊の縛り上げを
祈った後に やっと捨てる機会が与えられました

ですので 霊的なゴミによって
場が支配されている場合については
片付けるために霊的大掃除は
必要になってくるだろうと思います

しかしでは 霊的に綺麗な場所であれば
片付くのか というとそういうわけではなく
霊的に綺麗な場所においては
片付ける自由も片付けない自由もある
という状態になるのだと感じます

ソースは自分なのですが

私はプライベートにおいて
片付いているに越したことはないけれど
どうしても片付いていなければ
嫌ということはないタイプなのですが

人が来るなどの理由で片付けをする時には
片付ける機会を頂けたことに
感謝と喜びを感じ
神様を賛美しながら片付けをします

ですので 片付けようと思っても
片付かないということはなく
自分には片付ける自由があると感じます

ですが もし片付けようと思うのに
片付けることが出来ないであるとか
片付ける気にならないということであれば
何らかの敵の縛りがある可能性は否めず

仮に 力技で片付けたとしても
その影響は何らかの形で出てくると思います

ですので 霊的なゴミについては
あっても構わないなどとは言っていられません

イライラやトラブルの原因となりますし
私の場合はアレルギーのような
症状が出ることも多くあります
かゆみ 充血 くしゃみなどです

尚且つ霊的集中力 お祈りをしたり
聖書を読むことが邪魔されますから
徹底的にそれを排除する方向へ意識が向かいます

そういうものを感じればすぐに
血潮の祈りや背後の霊のを縛り上げる祈り
土地の呪いや人の思いの中にある
要塞を打ち砕く祈りをするようにしていますが

しかし その祈りや経験を通して
人の解放や成長があるので

自分にとって霊的な掃除と
人の成長を見守ることは
召しのうちだと感じています

以下は 過去に書いた話も込みで
長文になります

今回 質問してくださった方から
結婚する前と後でどういった
霊的お掃除をされましたか?という
質問があって 鋭いなぁと思ったのですが

結婚前も後も基本的に
やったことは変わりませんが
自分の意志でやったか
神様の介入によりやったかという
大きな違いがあります

クリスチャンになって
まずやったことと言えば
友人に貰ったお守りなども含めて
偶像と繋がりがありそうな
本やグッズを全て
背後の霊を縛る祈りをして捨てることでした

また 人のことを祈る時に
その人の背後の霊にまつわるゴミが
こっちに来て それを捨てるという
預言的行動をすることもよくありますし
痛みを味わうということもあります

それをもし 自分の思いでやっていたら
とても苦しいことであると思いますが
(過去はそうだったので苦しみましたが)

しかし それこそが自分にある
神様からの仕事だと感じるし
神様の報いがあることも感じるので
喜んで行うことが出来ます

自分が自由に出来るものであれば
そのようにすれば済むので楽なのですが
(痛みはありますけど神様が
共に背負ってくださるので軽いのですが)

しかし 人の思いの中に要塞がある場合は
捨てること自体が妨げられてしまい

家の外であれば それこそが
日々の霊的戦いとなっており
祈りを通して時間をかけてその要塞を壊し
段階を経て 神様の勝利を見ることになります

しかし 結婚相手ともなると
時間をかけて なんて悠長なことは
出来れば言いたくないわけです

過去に書きましたが りゅうくんと
結婚した直後の大きな霊的掃除と言えば
ゲームや小説 そしてPCでした

本人が捨てるという意思を持って
捨てなければ仕方がありませんし
PCという高価なものについては
捨てるまでもなくフォーマットを
かける程度で良いと思っていました

ですが 神様は妥協をされませんでした

まず りゅうくんがある特定の
ゲームをやり始めると
態度が明らかに悪くなったので
大変困っていた時期がありました

物凄いイライラした態度をしながら
ゲームをやっている姿はとてもじゃないですが
楽しみやストレス発散のために
やっているようには見えなかったし

コミュニケーションにも支障が出るので
そのうち 私自身もイライラしてきてしまい
そのゲームを今すぐ辞めなさい!と
怒ってしまうようになりました

今思うと 私自身も背後の霊に
影響されてしまっていたわけで
その自覚もあっただけに
いつも自己嫌悪に陥ってしまうのですが

しかし 私と一緒に住む上で
悪いものと仲良くされるのは困りますから
神様に どうすればいいのですか!と
いつも助けを求めていました

すると 神様が私とりゅうくんに
そのゲームの背後の霊の正体を
教えてくださいました

りゅうくんは 泣いて悔い改め
翌日には ゲームも小説も全て
捨てることが出来ました

またPCも画面が割れてしまい
捨てることになってしまったのですが
りゅうくんが 捨てることを
喜んでいたので御心だったと思いました

しかし万事これで全て解決 という
簡単なものではなく
思いの中にある要塞の打ち砕きには
その後もずっと霊的な戦いがありますし

その延長線上に 母の解放も
現在進行形で存在していると感じます

また 当然ながら自分自身の解放も
関係しているのですが それについては

私が恵みを受け取り解放されることで
周囲にも解放が起こると示されているので

(この件も日記に書きましたが)
周囲の人がなかなか解放されないのなら
自分に原因があると思って祈るように
するようになってからは 解放の速度も
早くなったように思います

また りゅうくんの場合
その戦いに勝利する鍵として
神様からの物語が与えられていますから

霊的戦いと賜物の訓練というのは
セットで存在していると感じます

聖書にある通り 神様は
訓練をされる方であると思うわけですが

であるとすれば 霊的戦いというのは
神様の手の内にあるので
この霊的戦いの目的は「敵の撲滅」ではなく
私たちの成長の方にあるわけです

私の場合を言えばこうです

釣り堀で 神様が放った魚を
神様が与えてくださった竿とエサで
釣ってごらん と言われるかのように

神様の安全領域の中で
自分で戦わずに祈りで戦うことを
覚えなさいと言われているのです

そして その姿をりゅうくんが
物語として書いているのです

敵との闘いと言いつつ
訓練中である今は 本当に
神様の手の内の安全な場所にいるので

これらの経験の中で 私たちは
絶対にこの安全領域を出ることなく
神様に闘って貰い 神様の勝利に
預かり続けることを覚えるのだと思います

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