自分の道を守る

昨日のことですが とてつもなく
非常識なことが起きました

しかし何よりの問題は
当人はそれをやって良いことだと
信じていることにあります

詳細は書きませんが
お金のためには嘘も方便であり
相手にとって必要がないものでも
買わせることは良いことだという
古い価値観の故にその
非常識な出来事は頻発し

尚且つ そのやり方は
人の役に立ち信頼を築こうとする
人の努力を一瞬で無にするため
折角蓄積したものを全て
壊された「まともな人」は
全員 怒っていなくなったそうです

正直 こういうのは
直らないと思います

そして 形は違えども
このような考え方
お金のためになら
悪魔の教えに従うことも
厭わないという人は存在し

そのお金で慈善をすれば
呪いに陥らずに済むよ という
教えまで出回っているのです

この事は 聖書にも書かれています
パウロが投獄された時に
反対者が喜んで福音を伝えるなら
それすら益になると言っています

実際 過去の私も 悪いことに
気付いていない人であっても
それにより良いことをするなら

批評だけして何もしない人の
何倍も良いことだと思っていました

しかし そもそもでそのような
比較自体が不毛であると
クリスチャンになり気付きました

悪いことを悪いと気付けない者には
神様が知恵や悟りを与えずに
その人が稼いだお金は御心のために
用いられているわけです

ただし それは長続きしません
悪は必ず滅びの道へ行くので
経験(昔はよかったという昔話)
だけが残り それ以外は全て
神様が愛する人のものとなり
その人の手元には残りません

悪魔のやり方を真似して
得たもので施した人は
不正の金で友を作れを
地で行ったのです

もし自分が得て失ったものが
神から出て神のために
用いられたことを悟らずに
自分の経験を誇り それを
人々に教えようものなら
悪魔の伝道師に堕ちるでしょう

ですが 自分は間違えていたのだから
この結果で良かったのだと
悟ることが出来れば
不正の富で得た友の引き立てを
受けるようになるのです

その人の報いは 友なのです

しかし 正しさを理解出来るのに
その力を批評だけに用いて
自分自身は何も産み出していないなら
悪魔の手の内に堕ちています

賜物を用いず批判ばかりすることは
1タラントしか持たないものが
それを土に埋めて隠して
主人に全てを取り上げられることを
地で行っていることになります

神様のために用いられて
手元には何も残らないことと
自分の賜物を悪魔に捧げて
何も産み出さず何も得ないことは
比較対象にならないのです

どっちのが良い悪いという
レベルの話ではありません
次元が違い過ぎて
比較にならないのです

正しさを理解出来るものには
そういうものにしか出来ない
神様の仕事があります

その仕事をして 良い実を見ること
それだけが大切なのであり
人のことは本当にどうでもいいのです

この中で 死を見ないものがいます
と イエスさまは仰有いました

それは誰ですかと尋ねると
私がどう望んだとしても
あなたにそれは関係ないと
イエスさまは仰有いました

噂話は 本当に愚だな
と 思う瞬間がありました

しかし 人がうつつを抜かしていても
その間に神様の仕事をすることは
可能であるわけです

神様は 私に様々な知恵知識を
与えてくださいますが
それは 私を自由にするものであり
いずれは 他の誰かを
自由にするものです

神様に いつまでですかと
叫んでいたことがありますが
それが何となくですが
示されているように感じています

日々の 自分がやるべきことを
やり遂げることが出来るように
自分の道が守られることを
真剣に祈ります

何故なら それが出来なければ
未来はないからです

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