壁が崩れることを祈る

昨日の日記には
書ききれなかったのですが

この3日間の滞在で
得た学びの中で
自分自身にも大きな
変化がありました

特に 私がクリスチャンとして
持っていたいくつかの恐れに
向き合うことが出来たことは
大きなことでした

ひとつは 自分の信仰の裏に
神様以外のものに騙されることに
対する恐れがあったこと

もうひとつは 自分の賜物が
人々に受け入れられない傾向が
強いということから来る
人に受け入れられないのではないか
という恐れです

というよりこれについては
実際には受け入れられているのに
受け入れられていることを
信じられない 受け入れられない
という表現の方が正しいのですが

ともあれ 日曜日の朝に
ヒーリングルームで
祈ってもらった時に 明確に
今日の礼拝において あなたの
整列するべき賜物はわかります

という預言的な祈りの言葉を
頂いた通りに 自分の賜物を
知ることは出来ました

私の持つ賜物は
使徒 預言者 教師です

それらは私がクリスチャンに
なるより前から私の周囲に
結果をもたらしてきたので
正に 私が胎に形創られる前から
定められていたものだと思います

しかし 昨日の日記に書いたように
使徒 預言者は疑われる傾向があります

また 教師というのも
真理に生きることに抵抗を感じる人
養われることだけを求める人にとっては
煙たい存在になり得ます

ですが 反面で私の賜物は
真理に生きることや
自分の召しを真剣に
求める人の助けにはなります

起業しようとする人や
個人社長のカウンセリングで
伸び悩む原因を見つけ出したり
していたのは 賜物なんだなぁと
思いました

しかし 牧会や伝道の賜物は
全くと言っていいほど
ありませんでした

正確に言うと 限定的には
それらについても
強い思いが与えられるのですが

自分にそれは向いてないと
痛感していますし
思いが与えられるのは限定的で
誰に対してでも ではないのです

人が自分の本来の召しに立ち
伸び伸びと成長することは
とても素晴らしいことで
人がそこに立てないなら
それは人類の損失になる

ということは本気で思うので
(限定的ではなくそれは
全世界 全ての人に対して
必要なことだと思うので)
こういうのが賜物なんだろうと
思います

また 神様を求める心については
幻(啓示)がなければ人は滅びる
ということばが聖書にあるのですが

啓示がなかったら人というより
まず私が死にます
死ぬと思う ではなく本当に死にます

実際 預言者というのは
神様の啓示がないと
鬱のようになるのだそうです

神様の臨在を求める飢え渇きは
預言の賜物の故だったのだなぁ
と思いますが 私にとってそれは
呼吸をするぐらい当たり前のことで
自覚はありませんでした

そして その自覚のなさが
恐れに繋がっていたのだなぁと
感じました

多くの人々が 偽預言者に
対する恐れを抱いている
という話ばかり聞くので

私も気を付けないと神様以外の声を
聞いてしまうのではないかという
恐れを漠然と持ってしまっていたのです

しかし その恐れは
敵を恐れることだなぁと
思ったので捨てました

神様以外の声を聞くというのは
欲や高慢という悪い心が
原因であって そのように
ならないことを注意するべきであり
敵を恐れる必要はありませんし

そもそもで それが
神様から出たものかどうかを
確認しあえる兄弟姉妹や
リーダーがきちんといるのです

自分の思いが疑わしいなら
確認すればいいだけのことです

力まず そのまんまに
神様の声を聞こうと思いました

そして教師ですが
噛み砕いてわかりやすく
教えることは幼い頃より
ずっと得意だったですし

教える内容の正確さについて
重荷があるので それは
自分の召しだと感じます

また 真理は人を自由にするという
みことばは本当であると思いますし
真理を知ることが出来ずに
縛られる人は可哀想だと思うのです

しかし 人に真理を悟らせるのは
自分ではなく神様であると思うので
わからせようとか裁くという
思いを持たずに来れたことには
感謝をします

それは クリスチャンに
なってから学んだことの中で
一番ぐらいに大きなことでした

以前は教えても伝わらないのは
自分の教え方が悪いと思っていたし
教えるのが下手なことを棚にあげて
理解しない人を悪く言う人を
裁く傾向があったのですが

自分の責任と神様の責任
というものがあり 神様の
領域についてはきちんと委ね
神様の邪魔をしないことで
全てが上手くいくという
信仰が与えられました

手放すべきことを手放して
逆に 今まで避けていた
自分が責任を負うべきことに
しっかり向き合うことが今の課題です

神様に求めることも人の責任ですし
自分の賜物を活用するのも
人の責任です

冒頭に書いた 使徒 預言者 教師の
賜物が受け入れられ難いことへの
恐れについて 物凄い単純に

受け入れられたいです
と 求めることは
私の責任なのかもな と思いました

正確に言うと
人に受け入れられたいというよりは
賜物を必要としている人に
きちんとリーチして流すべき
神様の愛を伝えたい!なのですが

人を押し退けてまで
そういうことをしたいとは
思わないタイプなので
嫌ならまーいーやと
思ってしまうのです

しかし それではそこにいる
神様を求める人たちが
可哀想だと思うので
神様に いつですかーと
訪ね祈ることはしていました

しかし壁があってそれが
妨げられているのであるなら
まずそれを崩してくださいと
祈らなければならないと気付きました

案外 思ってもみないところに
その壁は存在しているような
気がするので 祈ることで
そこに壁があったの!?と
驚くような気がしています

人の目には全くわからないところに
神様が介入してくださるのを
期待して 祈り求めたいと思います❤️

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