何のための成熟か

今朝 起きてシャワーを浴びると
新しい思いが与えられました

それは 昨日の講義で私たちが
聞くべき一番大切なことだと
思ったことが芽を出したものでした

講義の中での学びというのは

私たちの賜物の成熟度は
周りの人が その影響を受けて
同じような人が増えていることや
あなたのようになりたい!と
人々が集まってくることでわかる

というものでした

実際 私が神様に受けた恵みは
そのままに周りの人へ伝播しています

私が受けた解放は周りにも
伝わっていき 解放は起こりますし
私が受けたみ恵みは
周りの人も受け取っています

しかし

あなたのようになりたい!と
近寄ってくる人については
良いイメージがなかったのです

自分が良いイメージを持てないなら
それを得ることは出来るわけがない

これがひとつ目の問題で
そのネガティブなイメージを
捨てることを宣言しました

そしてもうひとつが
信仰についてです

人が自分の信仰に頼り なかなか
神様に頼るようにはならないのは
時間の問題であり
人によって時があるという
言葉をなんとなく
掴んでいましたが

昨日の講義を聞いて
私に責任があると感じました

私が神様を求める思いが
神様から与えられたものではなく
自分から出ているのではないか?
と思ったのです

信仰においては
私が神様を信じるに至ったのは
神様が私に神様を愛するのに十分な
み恵みを与えてくださったからだと
思っていますが

しかし 神様以外は嫌だ
神様だけがいい という思いは
私の思いから出ているように
感じたのです

神を恐れることは知恵の始めと
聖書には書かれており
その事自体を否定するような
聖句は確かにないですし

信仰がなければ
神に喜ばれないとさえ
書かれているわけですから

理想を言うなら
自発的に神様を愛するように
なるに越したことはないでしょうし
神様に喜ばれたいからと
一所懸命になるのは
それが子どもであるなら
可愛らしいものでしょう

しかし それは成熟したものの
態度ではないのも確かなのです

神様を大好きなことが
私から出るものでしかないなら
それは全く力のないことです

神様から出たものが力を持ち
周りの人に伝わらなければ
何の意味もない と思うのです

正直私は 自分がどのようにして
信仰を持ったのか全くわかりません

ですが神様は 私が神様を信じて愛し
信頼するに値するどころの話ではない
とてつもなく大きなものを私に注がれました

その栄光がきちんとお返し
出来ていないとしたらそれは
本当に とんでもない話なのです

私は自分の信仰によって
神様を信じ愛するように
なったわけではありません

ただ 神様以外に私を救うことは
出来ないと断言出来る根拠を
持っていたことは確かであり

その根拠をくださったのも
神様だと信じていますが

しかし 当時の私はそれが
「どの神様なのか」を
知りませんでした

なので 当時は混乱がありましたが
神様はその混乱をきちんと
紐解いてくださったのです

このことを明確に宣言したことは
よく考えたらなかったので

当時の出来事についても
神様に捧げ委ねて 全てを
手放すことを宣言します

神様に喜んで頂けることは
私にとっても喜びです

しかしその根拠となっている思いが
神様から出たものでないなら
手放すべきだと思いました

そんなものに頼らなくても
神様は私の存在自体を
喜んでくださっており
私はその事をもっと深く
理解するべきだと思いました

神様から頂いたものにこそ
力があるのであって
私の神様を求める思いに
力があるのではないのです

どう表現すれば良いのか
自分でもよくわからないのですが

兎に角 私は神様によって
整えられたいのであり
人の思いや努力により
何かを得ることには全く
興味がないのです

興味がないのにやっているなら
それは 私の中に無駄なものが
存在しているということであり
そんなものはどんどん
手放すべきだと思いました

自分自身が成熟することで
神様を慕い求める人が
起こされることが
神様のご計画であるのなら
私はもっと成熟したいと思いました

多くの人が神様の愛に気付き
本来の命を取り返すことは
どれ程素晴らしいことかと思います

神様の喜びが地に溢れることを
私は切に望みます

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