愛せるようになる過程

教会で何か大きな出来事がある直前には
いつも何かしら邪魔が入りますが

しかし その邪魔の質とレベルが
最近 全く変わってきたと感じています

最初は 明らかな敵意と悪意を感じる
邪魔があったのですが
そこにあった破れ口は
「過去の他人の負債」でした

人と人がいがみ合ったり
人を卑下したり
人を裁いたりしたこと

人が持つ「敵意」であったり
聖書に明確に「罪」だと書かれていることが
その場にあると それが呪いとなり
破れ口になっていたのではないかと思いました

それら一つひとつを
神様の方法で片付けていき
罪の責任を背負うべき人に
押し返していくことで
物事は正常化していきました

不正により得ていた利得が潰され
罪を悔い改めて誠実な道へと正されることは
人を幸せな道へと押し上げます

古い悪いものを慕っているなら
話は別ですが 多くの人は
不本意ながら生きるために仕方がなく
悪いものを掴んでいることが殆どです

その重さに耐えられることや
その世界で自分は上手くやれると
勘違いをして誇りとしてしまうなら

また逆に 自分には無理だとか
これが普通だ みんな同じだと
闘うことを諦めてしまうなら

そこには敵の要塞が出来上がるので
砕かれることになります

長い間 それを頼りに生きていた人は
砕かれたり引き離されたりするときに
恐れや不安が来るでしょう

しかし 神様はただ引き離すのではなく
離れた先に備えをしていてくださるので
神様の愛とみ恵みを受ける時に
安心を得ると思います

そこに飛び込むには勇気が必要で
時にはリスクを負うこともあります

しかし神様に頼るものは
失望に終わることがありません

ただし 要塞を堅固に
してくださいという祈りは
一切聞かれませんし
むしろ逆の方に向かいます

神様の目的から離れる
一切の願いは逆に働きますし
敵の仕業も必ず砕かれます

人の目には悪く見えても
み恵みであるわけですが
それがみ恵みであるとわかるには
少し時間がかかるかもしれません

私の最近の話に戻りますが

滞っていたものが流れ出し
様々なことが動き出してくると
今度は 自分たちの至らない部分が
破れ口になってしまいます

地の呪い 代々続く呪いなどが
なくなれば あとは自分の問題だけが
残るわけで それは恐らく
一生付きまとう問題です

しかし自分の問題を見るのではなく
神様の方を見ていると
そこに栄光が現れるので
本当に安心していられます

そしてこれは 自分に限らず
他人についても同じことで
他人の問題を見ずに その背後に
目を向けることが大切です

兄弟姉妹であれば
背後にいるのは神様ですから
そこに目を止めればいいですし

弱り果てて疲れきった人や
助けが必要な人の直ぐそばには
必ずイエスさまがいてくださいます

もし 背後に変なものがいたら
まずそれを縛り上げて
神様の介入を祈ります

そのようにする時 基本は
自分の内を探るときも
人のことを見るときも
結局は同じなんだな と思います

強がったり取り繕おうとすれば
必ずと言って良いほど裏目に出ます

神様は人の弱さを強めません
強くしてくださいという祈りは
聞かれないことが多く感じます

そういう時は いつも
パウロがサタンの刺
(病のことだろうと言われています)を
抜いてくださいと祈った時に

私の恵みは十分である
何故なら私の強さは
あなたの弱さに現れる

と語られたことを思い出します

弱さを認め ただ神様を頼ることを
神様は求めておられるのです

自分の弱さを認められるようになると
人の弱さも認められるようになり

自分の弱さに現れる栄光を
喜べるようになると
人の弱さに神様の栄光が
現れることを期待し
喜べるようになります

また 未熟な子どものような
神様に甘えたい自分を
認められるようになると
未熟な子どものように
甘えてくる人を
認められるようになります

自分自身の大人としての言い訳
人の稚拙な哲学のようなものを
全て砕くことが出来るようになれば
砕かれるべき大人のプライドを
相手にせずに済むようになります

神様の目線に立てない時は
自分の至らなさに苦しみ
神様の目線を知るときに
解放を感じます

御国にないものや
御国に持って入れないものは
全て捨てたいと祈っています

この世での必要については全て
神様に預けると聖めて頂けますから
自分は その聖めて頂いた
神様の所有物の良き管理人に
なることに務めれば良いだけです

その様にする時に
この世の物に対する嫌悪感も
消えていくことがわかりました

この世の物も(自分の肉体も含め)
神様が創られたものであり
神様が聖めて祝福をされたものは
どれも良いものだったのです

神様が聖められたものは
どれも素晴らしく 愛しいのです
それは 神様が素晴らしいからであり
それ以外に何の理由もないのです

素晴らしい方がこの世界を
創ってくださったことに
本当に感謝をします

この世が愛に溢れる可能性が
あることに感謝をします

実際は 人の選択の上に
それは実を結ぶことかもしれません
ですが 可能性があることに
目を向けることが出来るのは
神様が私にくださった賜物であり
その故に私は喜ぶのです

実は今日 教会でのメッセージに
バスで向かうことを書きましたが
結局75分遅れで到着したため
40分程遅刻をしてしまいました

しかし 講堂に入ったときに
話されていた内容は
今日の私の憂いを吹き飛ばし
喜びと平安を与えるものでした

また 今の私たちが聞くべき
最も大切なポイントは
きちんと聞くことが出来たし
自分に注がれた油注ぎが
どのように広がっていくのかも
イメージが出来ました

今日 ここに来る前に感じていた
終わりと始まり 新しい油注ぎを
十二分に感じることが出来ましたし

講義の後の出来事は全て
喜びに満ちていました

お話の中心は五役者の話でしたが
私に対して直近で示されている
神様から見た自分というのは
「喜びの人」であり その事は
多くの人からの確認があるので
役割はよくわからんけどとにかく
私は喜んでいようと思いました

そして 与えられた全てを
やり尽くせるようになりたい

その事を 改めて深く
自分に刻みつけたのでした

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