解決の鍵は既にある

今日は 仕事においてとても
宜しくないことが起きました

それは人の誠実さという意味でも
また 霊的な意味でも大変
宜しくないことでした

ああ これは他の社員さんが
無言で物凄い怒っているなぁ
と いうのを感じつつ

私自身は神様の平安の中に
いますので 動じることもなく
ただ この状況について
どのように考えてどのように
受け止めるべきなのかに
思いを巡らせていました

正論を並べて裁いたところで
自分が裁かれるだけだし
変わるように祈るのは違う気がする
恐らくこれは絶対に
変わることがないだろうという
確信すらありました

仮に 目の前でそれが変わっても
世界中のどこかで必ず
この問題は起きるだろう

それほどに在り来たり過ぎる
問題だったのです

であるとしたら この件について
私はどう祈るべきなのか

と 考えると どう考えても
神様ごめんなさい と
その人の代わりにとりなしを
祈ることしか思い浮かびませんでした

また この件が本当の
トラブルにならないようにと祈ると
それはきちんと
祈った通りになりました

するとその問題を起こした人は
ほら 大丈夫だったじゃないか
ということを言いました

なので またとりなしをしました
この人は自分が何をしているのか
わかっていないのです と祈りました

炭火が その人の頭の上に
積まれていくという表現が
聖書にはあります

神様は この件について
わたしの言葉は時に人の心を
かたくなにすることもあるから
その事を気にしないように

と仰いました

実際 かたくなにされた人は
人間的に言うなら「落ちる」のですが
それにより 神様が高く
引き上げてくださるのも見ています

ですから 神様に落とされることは
むしろ素晴らしいことであるわけです
(抵抗すると悲惨ですが)

神様と共に歩くことを決めて
神の前にへりくだることを
知った人は幸いです

何が罪で何が良いことかを
知らなければ何が原因で
自分が落とされたり高められたり
しているのかがわからないのです

聖書には イエスさまが
弟子に向かっては
わたしが話した言葉により
あなたたちは聖いと仰り

パリサイ人に向かっては
わたしが話した言葉を聞かなければ
罪に定められなかったろうに
と仰いました

パリサイ人は 何が罪かを
聞いたのに悔い改めなかったから
罪に定められたのだと思います

何が罪で何が良いことかを
知らない人というのは
知らずに罪を犯しています

またイエスさまの言葉を
聞いても受け入れない人は
受け入れないことにより
既に裁きを受けているとも
聖書には書かれています

天に唾を吐くなら
自分の顔にかかるだけなのです

誰かが真の神様に向かって
問題解決を祈るなら

神様は その問題に対する
解決を与えてくださいます
祈りが積まれてきたであろう
今の時代というのは 既に

一人一人が自分の賜物を
神様の手解きの元に用いるなら
目の前にある問題は全て解決する

既にそういう時代が
来ているのではないかと
なんとなく思っているのですが

しかし 自分に与えられた
解決の鍵を肉の思いで
捨ててしまう人も少なくありません

しかしその鍵は必ずあり
用いられることを待っているのです

神様が この件について
ひとつのヒントをくださいました

それは 目線を変えるということです

過去の知恵知識や哲学的な何かに
頼ったものの見方をしていることが
どこかに残っていないかを見極めて
そこに対して真に起きていることを
しっかり見極めなさい

と示されました

恐れずに直視しなさい
と いうことです

恐れを手放し 神様の平安の中で
それを見ることが出来るように
なることを 祈ります

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