憐れみの雨は悪人の上にも降る

今日の神様からの示しはシンプルでした

恵みは全ての上に注ぐ というものです
それは聖書にこのように書いてある通りです

マタイの福音書5章45b
天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
正しい人にも正しくない人にも
雨を降らせてくださるからです。

イエスさまの公生涯を見ていると
人々はイエスさまを見ると
病や悪霊にとりつかれた人を連れて来て
癒しと解放がたくさん起きたことが書いてあります

彼らは聖書という土台を既に持っており
しるしと不思議を信じた人たちは
たくさんいたわけですが

しかし 聖書を教える立場にあった
律法学者や祭司たちがイエスさまを
まず認めませんでした

また イエスについて来ていた人たちが
たくさん離れていくこともありました

ヨハネの福音書6章57節
生ける父がわたしを遣わし、
わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

このみことばを聞いた時に多くの人が
酷い話だと言って離れて行きました

勿論これは霊的な話です

ヨハネの福音書の冒頭には
イエスさまは言葉であり命であったという
有名な聖句があります

ヨハネの福音書1章1節-4節
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

イエスさまは神の言葉であり
神の言葉により命が作られたものは
神の言葉によって生きる

ということをイエスさまは言っていたわけです

また イエスさまはご自身の言葉を
守る人が 神を愛する者だと仰いました

どんなに聞いていても守らなければ
神様を愛しているものではないのです

また どんなに恵みを受けても
それは 神様が愛に富み恵み豊かであることを
現わしてくださっているだけであり
それに対して私たちが どのように
応答するかというのが大切なのです

ルカの福音書13章26-27節
すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。
「私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、
私たちの大通りで教えていただきました。」

だが、主人はこう言うでしょう。
「私はあなたがたがどこの者だか知りません。
不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。」

神様は 一人一人をその時代 その地域
その家にある問題の解決の器とするため
私たちを地の基が出来るより前から定めて
創造してくださいました

どんなに私たちが自分の思いによって
これが神様のためになると思って行動しても
所詮は私たちの思いによるものです

このことについて りゅうくんが
とても分かりやすい例え話を書いていました

恋のおまじない

内容は偶像崇拝ですが これは
不正の富も同じだと思いますし
神様が仰っていないことを
信仰として掴みながらも
結果が出ない全てのことに
当てはまると思います

神様の御心であるなら必ず
結果が伴い それは恵みではなく
救いと解放の御業であると思います

ある先輩姉妹が教えてくれたのですが
神様が益としてくださることというのは
救い 贖い 赦し 清算 和解の5つであるそうです

神様の益というのは恵みに富むことではないのです

これら5つのことは 神様にしか出来ません
他の一切が真似出来ないことなのです
義に歩いているというのであれば
この5つが起きなければいけないと信じ
この5つを切に願い求めています

神様の召しに歩くことで
救い 贖い 赦し 清算 和解を
たくさんたくさん見ることが出来ますように
心から 切に願い求めます 

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