余計な覆い

サムエル記を一気に読み終え
列王記に入ったのですが

今までと本当に全く違う感覚で
聖書を読むことが出来ています

平たく言うと 他の本を
読む時のように読めているのですが
その理由は霊的な邪魔が
ないからだと感じました

読むのを邪魔するものが
ない状態で読んでいて
一番大きく感じたことは

今までの聖書理解には
人のフィルタがかなり
入っていたなぁということです

人の理解というか
人の感想という方が
適しているでしょうか

人が言っていた感想が
フィルタになって
そのように感じていたことが
読んでみて全然違うじゃないと
思うところが何ヵ所もあったのです

それは申命記のあたりから
結構感じていたので
申命記についてはもう一度
きちんと読み込もうと思って
平行して読んでいますが

読めば読むほど
人の感想がほんとうに
偏ったものだと確信し
それを捨て去ることが出来ました

それと反比例する形で
神様の御心はどこにあるのか
という 神様の本心を知りたいという
飢え乾きが与えられるようになりました

実は今まで 神様とは
こういうご性質の方だから
こういうことは起きて当然で
こういうことは起きるはずがない

みたいな思いがなんとなく
存在していてのですが
その原因が人の感想だったと
気が付いたのです

生ける神様と付き合うのに
そういうのは違うよなぁ
と 感じました

また その様に余計なフィルタが
取れてくるにつれて
これは本当に異文化の
歴史なんだなぁとしみじみ
感じるようになりました

中近東 イスラエルの文化を
知らずに読んでも
わからないところも
多いな と感じましたが

今まで読んでいて
モノクロに感じていた
登場人物や情景が
とても色鮮やかに
感じるようにもなりました

こうやって 少しずつ
時に応じて心の覆いを
取り去っていただけることも
嬉しいなぁと思います

神様のことは勿論ですが
もっと聖書が身近に感じれるように
なるといいなぁと思います

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